2008年12月30日火曜日
マクロレンズの威力
ところが。
花が咲いたとはいっても、花はどれも極端に小さくて地味。
植物が花弁を発達させる最大の理由は、花粉を運んでくれるハチなどの訪花昆虫にアピールして、より高頻度で花粉を運んでもらうためであると考えられている。他の植物がハデな花をつけて訪花昆虫を惹きつけると、そうでない植物には寄ってこなくなる。そんな植物は繁殖に失敗し、子孫を残せず淘汰されていくという理論。
小笠原には、ハデな花を咲かせる在来の植物はそう多くない。6月頃、ムニンヒメツバキやクチナシなど、花が比較的ハデだったり強い芳香をもった植物の開花ピークがあるが、11月にはそういった花が特に少ない。小笠原の11月には、訪花昆虫を取り合う競争相手が多くなかったのか、この時期に咲くキク科の花はどれも小さくて地味。
そんな小さな花たちも、マクロレンズでギリギリまで寄って撮影すると、地味ながらも可憐な表情を見せてくれる。
2008年11月16日日曜日
ドック中の食料調達
先週の話になるが、この期間の食糧調達のために、スイングブローのメンバー5人で船釣りに行ってきた。サバの切り身をエサにした底釣り、狙うは幻の高級魚カッポレ。
朝に出発。午前中。糸を垂らすたびにひたすらホオアカクチビ、通称ショナクチが釣れる。カッポレのような回遊魚を釣るには潮回りの悪いときに限ってこの魚が釣れると、釣り船の船長は言う。まあ食える魚だけど、あまり有難くない獲物。
ところが昼を過ぎて一変、ポイントを変えたせいもあってカッポレが釣れだした。糸を垂らすたびに、ウメイロというまあ旨い魚が入れ食い、そして時折強いヒキでカッポレが当たる。大きさの割にヒキが強くて、リールを巻きながら竿を片手で支えられないくらいに引かれる。上げる頃には腕がヘロヘロに疲れて握力を失うが、この魚を上げた喜びはひとしお。港に戻るまでには、釣れた魚をデッキに広げると魚市場のような光景になるくらい、いっぱいの魚が釣れた。
カッポレ
そして夜。皆で釣った魚を料理して持ち寄ってパーティー。やっぱりこれがいちばんの楽しみ。キツネベラの天ぷら、アオチビキのづけ握り寿司、アカハタの味噌汁などなど。旨かったぁ~。
幻の高級魚カッポレは、一晩寝かしたほうが旨いということで、次の日に料亭経験のある友人宅に持ち込んでお造りに。ヒキの強さだけでなく、味も別格。小笠原で食べた魚の中では間違いなくナンバーワン、本当においしかった。
内地から新鮮な食料品が来ないけど、その代わりに小笠原を釣って小笠原を食べた、幸せな1週間だった。
固有種の調査
2008年10月12日日曜日
海の中の色彩
それは、親しい友人の結婚式に出席できないこと。
年齢のせいもあって、最近友人の結婚式がたて続けにある。
なんとか仕事の都合を合わせて行こうと努力するのだけれど、いったん内地に行くと、船が週に1便しかないせいで10日間は戻ってこられない、さすがに10日間という長期間の仕事のやりくりをするのは難しく、どうにもならないことが多い。親しい友人の大事な人生の節目を、いっしょにお祝いしたいのに、それができないのが悲しい。
それはさておき、この連休にたて続けに2人の友人の結婚式に出席できないかわりに、ダイビングに行ってきた。砂地の上にイバラカンザシがわんさか付いた岩があって、何枚か写真を撮った。後で見てみると、フラッシュありとなしとで全く違う色彩であることに驚かされる。
フラッシュなし
水中は青の世界。それは、太陽から降り注ぐ光が水中に差し込むと、波長の長い赤系の光が水に吸収されてしまうから。フラッシュをたくと、赤系の光も含む、私たちが日常触れている白い光が対象に当たるため、対象が本来もつ色が写真に写る。
もしも、光の成分の一部がこのように水に吸収されず、空気中と同じ光が水中の生きものたちに当たるとしたら、どれだけ鮮やかな世界になるんだろう、そんなことを連想させるひとコマの写真。
2008年8月30日土曜日
兄島の乾性低木林
相変わらず気まぐれですみません。
8月中はひたすら現場の仕事が多かった。
そのひとつが、父島の北側に隣り合う兄島での調査。世界自然遺産登録を目指して、小笠原の生態系の重要な価値とされているものに、ずいぶん前の話で触れた陸産貝類のほかに、乾性低木林というものがある。
小笠原諸島は大陸と一度も陸続きになったことのない海洋島で、生き物たちはすべてはるばる海を渡って小笠原に辿りついた。植物に関しては、日本本土ではなく、東南アジア系に起源をもつものが70%もあるという。こうした渡ってきた植物たちが、長い年月をかけて出身地よりも雨が少なく乾燥した小笠原の気候に適応していく中で、多くの種が出身地の祖先とは違う形態や特徴をもつ新たな種に分化し、小笠原の固有種となった。
兄島の乾性低木林は、こうして小笠原で独自に進化してきた固有植物種の宝庫。日本では他には見ない、独特な景観がある。種によって葉の色がずいぶんと違い、遠く見渡すといろんな緑色のモザイク模様がきれい。



2008年7月27日日曜日
父島の太平洋戦争
父島には、どんなに山奥へ行っても至る所に壕があり、海岸には海に向けて銃眼が連なっている。やっそが島に来て1年半、友人や旧来島に住む人との話のなかでは「父島は上陸戦がなかったから戦死者はほとんどいない」、霊感のある人によると「そこらじゅうに兵隊さんが見える、暗い雰囲気がある」など、どれが本当ともつかない話ばかり。ここには戦時中の記録がないから、一般に知られる事実というものがない。
やっそは、今年1月に吉村昭著の「脱出」を読んで以来、戦時中の父島の実情について強く関心を持つようになった。この「脱出」という著作には、戦時中から終戦に向けての過酷な時代について、それぞれ異なる境遇を生きる人の視点で1編1編綴られた等身大のストーリーがある。当時を生きた人にとって戦争とは何だったのかについて克明に描かれている。
先月訪れた硫黄島での出来事を知るにつけて、父島への関心をいっそう深めた。ここで何があったのか、当時を生きる人にどんなストーリーがあったのか?
そんな疑問に答えを与えてくれたのが、皆から板長(いたちょう)さんと呼ばれている、島で戦跡のガイドをされている方。丸一日の戦跡ツアーに友人と参加して、当時通信施設など軍の重要拠点が置かれていた夜明山周辺を散策した。
板長さんの後を歩いて行くと、普段何気なく車で通過していた場所のすぐ脇に壕があることに気づく。真っ暗な壕の中を電灯で照らしながら進んでゆくと、先に明かりが見えてくる。明かりは銃眼から差し込んでいるもので、その銃眼から顔を出すと、驚くことに入った側とは反対側の海が広く見渡せる。壕は暗く迷路のように入り組んでいて、ただでさえ方向感覚を見失うのに、この繰り返しで自分の現在位置を完全に見失う。
爆撃により2階の床が抜け大破した元海軍司令部の建物。爆撃時に本部は既に山中の壕内に移転しており、人的な被害はなかったそうだ。
トロッコを走らせたレールが残る壕、当時発電施設があった壕、炊事場だった壕、そして今なお砲身が完全に近い状態で残る銃眼。壕内に電灯をつけるための支柱、兵隊さんの荷物を置いたスノコ状の板、ヘルメットをかけたフック。目にするもの一つひとつについて丁寧な説明があり、その一つひとつが意味を持ち、当時の様子が思い浮かぶ。
そこには、今まで自分が知っていた父島とは全く別の世界が広がっていて、タイムスリップしたような、狐につままれたような感覚になる。
「ここにビロウ(ヤシの仲間)の木が3本あるでしょう、戦争初期に海軍に5年間所属し、任期満了で船を降りた後、戦局の悪化で小笠原兵団に送り込まれた方がいましてねえ、この方が戦後数十年経ってから父島にいらした時に案内させて頂いたんですよ。海軍ではハンモックで寝るという習慣が身についていたから、小笠原でも地べたで寝ることができなくて、ハンモックをこの3本のヤシの幹に固定して寝たというんですよ。父島でも爆撃は激しく、寝ているハンモックのすぐ近くに爆弾が落ちてもこの方は意固地で動かなかったそうです。この幹に傷があるでしょう、これは爆弾が炸裂して破片が食い込んだ跡です。」*
「この2本のヒメツバキの木は見事でしょう、大きさも形も似たり寄ったりで、寄り添うように生えて夫婦(めおと)のようでしょう。この2本の木に救われたという方がいました。連日の爆撃で身動きが取れない中、このヒメツバキの根元で戦友と故郷のことを語り合ったことが精神的に救いになったというのです。」*
板長さんが何十年もこの仕事に携わる中で培ってきた、この地で戦争を経験された方との繋がりにより、この地に実在したストーリーが語られる。
板長さんに頂いた資料によると、当時の父島における陸・海・空軍、軍属の総数はおよそ18,700人、今の父島の人口が2,000人近くだから、そのおよそ10倍にもなる、驚くべき数。このうちの戦没者数はおよそ4,500人近くにものぼるという。上陸戦こそなかったものの、特攻機、艦船・輸送船等乗組員、空爆被害、自爆等含めるとこれほどの数になるそうだ。
戦争の遺構を見るにつけて人力でこれらすべてを創り出した当時の人々の能力と苦労に驚嘆し、ここでの出来事に胸を痛める。
*板長さんの語りを、趣旨を外さないよう会話風に再現していますが、板長さんの語った言葉を厳密に再現しているわけではありません。
2008年7月20日日曜日
看板
コペペの浜で伐採されたテリハボクの丸太を拾ってきて、チェーンソーでスライスして、やすりがけして平らにして、彫刻刀で彫って文字上面を焼いてニスをかけて、漸くできあがった。道のりは長かったけど、この赤味のきれいなテリハボクの木目を見るにつけて、想像以上の出来の良さを見るにつけて大満足。
勤務先の会社が初めて明かされてしまうが、せっかくなので写真を掲載させてもらいます。
看板製作にご協力頂いた方々、ありがとうございました。お陰様です!
2008年6月15日日曜日
硫黄島
矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又
七度生れて矛を執らむぞ
醜草(しごくさ)の島に蔓(はびこ)るその時の
皇国(みくに)の行手一途に思ふ
太平洋戦争末期、戦争終結のおよそ半年前に硫黄島であった日米の決戦の最期に、硫黄島を管轄する小笠原兵団長栗林中将が、玉砕の直前に大本営に宛てた訣別電報の最後に添えられていた和歌三首。
6月12日から15日の間、小笠原村主催の「硫黄島墓参事業」に参加してきた。太平洋戦争中の激戦については多くの人の知るところ、そして今だに定期便はなく一般観光客の上陸が許されない、有名ながらも最も遠い島のひとつ。ただし、硫黄島旧島民(戦前の住民)は当然のこと、小笠原村在住1年以上の一般島民は抽選により、今回のような墓参事業に参加し、上陸することができる。やっそもこの千載一遇のチャンスを得て、硫黄島に上陸することができた。
墓参の主旨は、慰霊祭に参加して硫黄島決戦で亡くなった方々を弔うこと、旧島民の方々は故郷に一時的に里帰りすること、そして硫黄島の戦跡を巡って決戦の様子を目の当たりにして理解すること。やっそは参加するにあたって、「硫黄島からの手紙」、「父親たちの星条旗」はもちろんのこと、旧島民を祖先に持つ友人から借りた硫黄島に関する資料で多少の勉強をした。
慰霊祭の献花
その上で島の隋所を訪れてみると、目の前の景色から戦時中の様子が脳裏をよぎる。米軍が上陸した扇浜、資料にはここに日米兵の無残な亡骸が累々と横たわる光景を収めた写真が載っていた。摺鉢山(すりばちやま)から扇浜に向けられた旧海軍の破壊された砲台、火山活動による地熱のために気温40~50℃に達するサウナのような地下壕、このような場所では自決や米軍による火炎放射などの攻撃により多くの方が亡くなっている。当時の過酷な状況を思い浮かべると目に涙がにじむ。
米軍が上陸し、死闘が繰り広げられた海岸線(右奥が摺鉢山)

そして、戦争の悲惨さはもとより、そのときここで戦っていた人々の思いの強さに強く感じるものがある。硫黄島は東京から南へおよそ1300キロ、サイパンから東京方面へ出撃する米軍爆撃機B29の帰路中継地点として重要な軍事拠点であることから、米軍が集中攻撃を行った。一方、日本軍にとって硫黄島は日本固有領土初の上陸戦であり、また米軍占拠によりB29の本土爆撃が激化する可能性があることから譲れない一線であった。
制空権、制海権を米軍にほぼ抑えられ、銃器弾丸、食糧等の補給がほとんどなく物量に圧倒的な差があり勝ち目のほとんどない戦いにありながら、当初5日で落ちると目されていたものを27日間の死闘に持ち込んだ。そこにかけた司令官栗林中将の思いが、冒頭に述べた和歌三首に凝縮されている。
3句目、「醜草の島に蔓るその時」というのは戦争の過ぎ去った今現在のこと、目の前の死闘、自らの命よりも、これほど国の未来を真剣に思い、身を尽くした人がいた、それがあって今の日本があり自分たちがあることを、今を生きる日本人として心にとめておかなければならないと思う。

参考資料:「硫黄島とバロン西」(2006年11月、太平洋戦争研究会編著、ビジネス社発行)
2008年5月14日水曜日
台風一過
用心して、ガラス窓が割れるのを警戒して雨戸を閉めて寝たのだが、朝起きて雨戸をあけると、もうずいぶん風は収まっていたものの、窓の外から浜辺のような潮の香りがした。車は塩だらけ、事務所の物件を貸してくれている家主さんは、洗車に使うようなウォーターガンを使って家の外壁を一生懸命洗い流していた。雨を伴わない台風だったために、吹き上げられて降ってきた塩水が洗い流されず、その塩のせいで家が傷むのを防ぐためだという。
朝起きてすぐに浜に行ってみると、素晴らしく波乗り向きの波が次々と押し寄せ、十人を超えるサーファー達が次々と波に乗って滑りだしている。普段なかなかいい波の入らない小笠原では、台風が通過すると、待ってましたとばかりにサーファー達が海に繰り出す。
こんなふうに、台風の害から家を守るために手を尽くす人、逆に波という台風の産物で楽しむ人々がいて、台風が島民の生活の一部になっているというのが実感できる。
夕方、事務所で仕事をしていると俄かに外の光が赤みを帯び、これはと思って三日月山の展望台に急ぐと、西の空が台風一過ならではのダイナミックな夕焼けに染まっていた。
2008年5月4日日曜日
幻の滝
よし、この天気はカヤックに行くしかない、そう決めた。父島やその近辺の無人島には、大雨の直後にしか姿を現さない滝がいくつもある。それは、土壌が薄く貧弱であることに加え、島自体が小さく、降雨が地表を流れ去って海に至るまでがあっという間であるということに起因している。この幻の滝をこの晴天の中見に行かない手はない、そんな滝の中でも特にダイナミックな兄島は滝ノ浦の滝を見に行くことにした。
友人3人と、4人連れ立って2隻のシーカヤックに分乗し、父島の宮之浜から海に入った。漕ぐこと十数分、滝ノ浦の滝が見えてきた。今まで見たことのある中でいちばん水量が多くダイナミックな瀑布、来た甲斐があった。
その後、兄島の西側に位置する人丸島のちいさなビーチに上陸、昼ごはんを食べたりゆっくりコーヒーを淹れて飲んだりスノーケリングを楽しんだり岩に登って絶景を眺めたり、のんびりと楽しみ尽くした。
今日滝ノ裏で見た瀑布の風景のように、自然の営みの移り変わりのほんの一時にしか姿を現さない壮大な風景に居合わせることは本当に貴重なこと、そんな経験をできた今日という日に大満足。
2008年4月23日水曜日
フェルマーの最終定理
お花見が目的、それに仕事の用事を付け加えるような形で。
小笠原に比べると、内地での生活にはスキマ時間が本当に多い。
毎朝のように遅延する電車の中、有名ラーメン店の行列の待ち時間、会社の昼休み…。
そんな時にはとにかく本を読む。小笠原では読めそうで読まない本を読む。
今回のヒットは、「フェルマーの最終定理」。
イラストレーターの後輩のブログに素数ネタが連載されていて、そこで紹介されたこの本に興味をそそられて買ってみた。これが本当に面白い。数学史上超有名な超難問「フェルマーの最終定理」ができた時代背景、そしてフェルマーその人の生い立ちや性格、そしてその後3世紀以上にわたる数学者による挑戦の歴史が克明に描かれている。そしてその理論が素人にもわかるように超簡潔に述べられている。やっそはもともと数学が特に好きというわけではないが、この理論と人間ドラマの交錯したストーリーが面白くて夢中になって読み切った。
この本に示されていた面白いクイズ。フェルマーの定理には直接関係ないのだが、ジョン・フォン・ノイマンによるゲーム理論に関する記述の一節より。
「トルエルという、三人で行う決闘のようなものがある。ある朝、黒氏と灰氏と白氏は、もめごとを解決するためにピストルで決闘をすることにした。決闘は一人だけが生き残るまで続けることになった。黒氏はピストルが下手だったので、平均して三回に一回しか的に当たらない。灰氏はそれよりもいくらかましで、三回に二回は的に当たる。白氏はピストルの名手で、百発百中だった。公正を期するため、黒氏が最初に発砲し、次に灰氏(彼がまだ生きていれば)、最後に白氏(まだ生きていれば)という順番で、一人が生き残るまで続けることにした。黒氏ははじめにどこを狙うべきだろうか?」
わかるかな~?
次のブログに答えを掲載します。
2008年3月27日木曜日
ムロアジと島トマト
アカガシラカラスバト繁殖期の12月から3月までの間、島民が持ち回りで繁殖地近くにネコの籠罠を仕掛けて捕獲し、繁殖中のアカガシラカラスバトがネコに襲われるのを防ぐための活動をしている。間違って張本人のアカガシラカラスバトが罠にかからないように、アカガシラカラスバトの活動時間帯の昼間は籠罠を閉じ、アカガシラカラスバトが活動しなくなり、ネコが活発に動き出す夜間に籠罠に餌を仕掛けて開けておく。そのため、夕方の仕掛けと早朝の見回りの1セットが当番になる。
今日の夕方、当番のために記録簿や餌が置いてある倉庫に行くと、前でコウタとセイヤが釣ってきた魚を一生懸命洗っていた。コウタとセイヤは倉庫のすぐ前の宿舎に住む小学生の二人兄弟。たまに一緒に釣りに行ったりバーベキューをしたりと遊ぶことがあって、いつも明るく元気で素直で、絵に描いたようなかわいい兄弟。声をかけてみると、「今日はいっぱい釣れたからあげる、あげていいかどうかお母さんに聞いてくるね~」って走り出した。その矢先、お母さんが家から出てきて承諾を得た模様、たくさん並んでいたムロアジのうちの1匹を袋に入れて渡してくれた。ありがとう。
このムロアジと、ちょっと前に友人からもらった島トマトを使って、今日はムロアジと島トマトのマリネを作った。ムロアジは、三枚におろしたあと、塩とレモン汁とにんにくのみじん切りで作ったタレに浸してしばらく置いておく。島トマトは、品種は内地とそれほど変わらないものだと思ったが、小笠原の日差しを浴びて、甘く濃い味がアフリカのトマトに似ている。このトマトと、スライスしたムロアジを皿に盛って、小笠原の塩、オリーブオイル、バルサミコをちょっとずつ振って完成!
ムロアジと島トマトのマリネ
初めての組み合わせだったが、ちょっと青臭いムロアジと甘く味の濃いトマトが絶妙にマッチして、とても美味しかった。そして三枚におろしたアラから取ったダシで作った大根のお吸い物(写真右奥)も旨かった。コウタ、セイヤ、そしてこのムロアジやトマトを作りだす小笠原の自然にありがとう。
2008年3月22日土曜日
おがくず
まずはこの丸太の断片を、チェーンソーを使ってスライスした。
その時に出たおがくずが手前の袋の中身。
こんな、3枚の板きれをつくるのにこんなにたくさんのおがくずが出るとは・・・。

最近、温暖化対策等で木質ペレット(おがくず等の加工くずを固めた木質の燃料)を利用したストーブや温水器が話題になるのを聞くにつけて、そんなの利用可能な燃料の量なんて高が知れていると思っていた。それが、この3枚のスライスでこんだけの量が出るとは、であれば普通に製材するとき、木造家屋を建築するときに至っては、これとは比較にならないほどのおがくずがでるはず、ということはそれを原料にするペレット燃料の量も相当量の生産が可能なのだろう、という考えに至った。
このスライスした板は、これから乾かして表面を鑿で整えたのち、会社のトレードマークと社名を鑿や彫刻刀で彫りこみ、焼印処理をしてニスをかけ、完成となる予定。道のりは長い。
2008年3月11日火曜日
さかなクン登場!
この日、いつものおがさわら丸に加えて、不定期のちょっと豪華な観光船、にっぽん丸が父島二見港に入港していて、その添乗の特別ゲストとしてやってきたのが本来の目的、くじらフェスタの主催者がそれに便乗する形でステージを準備した様子。
このさかなクンのさかな教室が大盛況。とにかくさかなクンの早描きのポイントを上手く表現した絵と、膨大な知識に基づいた解説が面白い。そのひとコマ。
そしてなんと、さかなクンは学生時代に吹奏楽部でトロンボーンをやっていたということが発覚、我々スイングブローのステージにもゲスト出演で出てもらおうと思っていて、楽器も楽譜も用意して待っていたのだが、さかなクンは我々のステージの前にそそくさと車で宿へと帰ってしまわれた。残念。
余談になるが、さかなクンは、「吹奏楽部」を「水槽学部」と間違えて入部してしまった模様。笑。出典はWikipedia。
スイングブローの面々
2008年3月6日木曜日
小笠原固有のカタツムリ
今まで書いたブログを振り返ってみると…、あったあった、去年2月26日にカタツムリネタがある。この記事にあるとおり、小笠原諸島の世界自然遺産登録に当たり、生態系、生物多様性に関しては、小笠原固有のカタツムリが最も重要であるとされている。あのブログを書いた当時は想像もしていなかったのだが、今はこの小笠原固有のカタツムリを守るための調査が仕事の日課になっている。
カタツムリは知ってのとおり一般的に動きはとても遅く、行動範囲もそれほど広くないため、小笠原固有のカタツムリ達も、それなりの住環境が残されていれば比較的よく生き残っている。ところが、小笠原諸島の中で父島だけは他の島々とは全く様子が違う。
父島には、カタマイマイ属という比較的大型のカタツムリが、カタマイマイ、チチジマカタマイマイ、アナカタマイマイ、キノボリカタマイマイの4種が生存している。下の写真はカタマイマイの殻。分厚く質感のあるダークブラウンの殻に、白いストライプが1本、スパッと入っている。一般にイメージするようなヤワいカタツムリの殻とは大分雰囲気が違って、高級感にあふれている。この殻の形や模様は、カタマイマイ属でも種や住んでいる地域によって異なり、ストライプが2本入っていたり、殻の地色が薄緑色だったりと様々。

仕事では、このわずかに残されたカタマイマイ属のカタツムリ達の貴重な生息地を守るため、ニューヤリが何かにくっついて運ばれたり、自力の移動によって拡散したりすることを防ぐための対策を練っている。
アカガシラカラスバト同様、この戦いは始まったばかりであるが、敵があまりにも多数で目につかない相手なだけに、どうしたら拡散を止められるのか、頭の痛いところである。
2008年3月4日火曜日
アカガシラカラスバトの保全に向けて

小笠原諸島には、アカガシラカラスバトという固有のカラスバトの亜種が生息していて、その個体数は推定わずか40~60羽と言われている。このハトを絶滅から救うためにどうしたらよいかという保全活動計画を作るための国際ワークショップが、1月10日~12日の3日間、父島で開催された。
正確にはPHVA(Population and Habitat Variability Analysis:個体群および生息地の変動性分析)ワークショップと呼ばれ、国際自然保護連合(IUCN)から希少動物種保護・増殖の専門家を迎え、それにアカガシラカラスバトの保護・増殖に関係する、できるだけ多くの関係者を巻き込んで、3日間ワークショップ会場に缶詰めになってみんなで計画をつくるというもの。
関係者とは、具体的には、環境省、林野庁、東京都、小笠原村、上野動物園(アカガシラカラスバトの飼育をしている)等の公的機関、獣医さん、地元のNPOのスタッフや地元のツアーガイドの方々等々、総勢100名を超える人たちが集った。やっそは、このワークショップに事務局ボランティアとして、またカタコトの英語を喋れることから、海外から迎える専門家のサポート係として参加させてもらった。
この手法は、日本では他にツシマヤマネコとヤンバルクイナの2種、その他世界各地で採用されていて、多くの成果を上げている。今回のワークショップに参加して、この成功の秘訣を目の当たりにした。
その秘訣とは、様々な形でアカガシラカラスバトの保全に関係する関係者が一堂に会して、3日間で保全計画を作成するという目標を共有して、そのことだけを考えて3日間議論し通すこと、そして希少動物種保護・増殖の実践経験を豊富に持つIUCN専門家の存在。
関係者が一堂に会することで、3日間という期限つきのプレッシャーを共有することで、議論を先送りにせず、次々と片付けていくことができる。議論を進める中で、必ず焦点となるのが、どれほどの数のアカガシラカラスバトを、どのような形で維持すれば絶滅が回避できるのかということ。
そこは専門家の出番、様々なケースを想定して、絶滅確率を算出するコンピューターシミュレーションをその場で走らせて、その場で結果を得る。そしてその結果を反映して更に議論を進めることができる。このシミュレーションは専門家の重要な役割ではあるが、一方で、議事進行を務めるファシリテーターとして、議論を保全活動計画策定という目標に向かって導いていくことも重要な任務。豊富な経験に裏打ちされた、柔軟かつ的確な采配で、100名以上もの大勢の参加者により執り行われる議論を、アカガシラカラスバトの保全活動計画にまとめ上げていく。
このようにしてつくり上げられた保全活動計画は、今年4月に正式な形で世に出ることになっている。アカガシラカラスバトを後世に亘って守っていく活動はここでスタートを切ったばかり、この計画にもとづいた今後の活動そのものがとても大事になってくる。
今回このワークショップに参加して、世界的に実績を上げている保全計画づくりのプロセスを経験できたことも然ることながら、サポート係として、希少動物種保護・増殖の分野では世界でも第一人者であるような専門家の方々との交流が持てたこと、その素敵な人間性に触れることができたことも大きな収穫だったように思う。
2008年2月29日金曜日
鍋に明け暮れた日々
昨年の最後のブログでは、今年のブログをより充実させるよう頑張ると書いた。
あれからもう2ヶ月が経過して、せっかく読んでくれていた読者の方々も離れてしまったかもしれない。今年初めてのブログ更新。こんな気まぐれなブログですが、今更ながら、今年もどうぞよろしくお願いします。
この2ヶ月の間、何をしていたかというと:鍋、呑み、仕事、海、…。
今年の小笠原はとにかく寒い。
小笠原に来てはや1年、去年の2月はこんなに寒くなかった。島に長く住む人たちも、口を揃えて今年は寒いという。寒いのは小笠原だけではなく、内地も然りの様子。
この寒さの原因は、長く続く冬型の気圧配置。現場仕事が多い関係上、そして小笠原の天気予報があまり当たらない関係上、気象庁のホームページで天気図をまめにチェックしている。年が明けてからは、チェックする度に西高東低の冬型の気圧配置。低気圧が北海道の北東沖に達する頃には960hpを切る台風並みの低気圧に発達することもある。この低気圧が率いる前線が西から東へ小笠原諸島を通過すると、大陸高気圧から流れ出す寒気が小笠原へ達するようになり、急に冷え込む。

そんなときは鍋がいちばん。同世代の独身の友達が多く、しかもみんな近くに住んでいるから、身を寄せ合って鍋を囲んであったまる。一度鍋をやると、必ず、次は誰の家で何鍋をしよっか、という話になる。この間は応用編でおでんになったりもした。そんな鍋鍋鍋の連鎖。
そんなこんなでとにかくひとりで過ごす夜が殆どなく、なかなか机に向かうことがなかった。
理屈っぽく長くなりましたが、以上が2ヶ月間ごぶさたした言い訳でした。