父島には、どんなに山奥へ行っても至る所に壕があり、海岸には海に向けて銃眼が連なっている。やっそが島に来て1年半、友人や旧来島に住む人との話のなかでは「父島は上陸戦がなかったから戦死者はほとんどいない」、霊感のある人によると「そこらじゅうに兵隊さんが見える、暗い雰囲気がある」など、どれが本当ともつかない話ばかり。ここには戦時中の記録がないから、一般に知られる事実というものがない。
やっそは、今年1月に吉村昭著の「脱出」を読んで以来、戦時中の父島の実情について強く関心を持つようになった。この「脱出」という著作には、戦時中から終戦に向けての過酷な時代について、それぞれ異なる境遇を生きる人の視点で1編1編綴られた等身大のストーリーがある。当時を生きた人にとって戦争とは何だったのかについて克明に描かれている。
先月訪れた硫黄島での出来事を知るにつけて、父島への関心をいっそう深めた。ここで何があったのか、当時を生きる人にどんなストーリーがあったのか?
そんな疑問に答えを与えてくれたのが、皆から板長(いたちょう)さんと呼ばれている、島で戦跡のガイドをされている方。丸一日の戦跡ツアーに友人と参加して、当時通信施設など軍の重要拠点が置かれていた夜明山周辺を散策した。
板長さんの後を歩いて行くと、普段何気なく車で通過していた場所のすぐ脇に壕があることに気づく。真っ暗な壕の中を電灯で照らしながら進んでゆくと、先に明かりが見えてくる。明かりは銃眼から差し込んでいるもので、その銃眼から顔を出すと、驚くことに入った側とは反対側の海が広く見渡せる。壕は暗く迷路のように入り組んでいて、ただでさえ方向感覚を見失うのに、この繰り返しで自分の現在位置を完全に見失う。
爆撃により2階の床が抜け大破した元海軍司令部の建物。爆撃時に本部は既に山中の壕内に移転しており、人的な被害はなかったそうだ。
トロッコを走らせたレールが残る壕、当時発電施設があった壕、炊事場だった壕、そして今なお砲身が完全に近い状態で残る銃眼。壕内に電灯をつけるための支柱、兵隊さんの荷物を置いたスノコ状の板、ヘルメットをかけたフック。目にするもの一つひとつについて丁寧な説明があり、その一つひとつが意味を持ち、当時の様子が思い浮かぶ。
そこには、今まで自分が知っていた父島とは全く別の世界が広がっていて、タイムスリップしたような、狐につままれたような感覚になる。
「ここにビロウ(ヤシの仲間)の木が3本あるでしょう、戦争初期に海軍に5年間所属し、任期満了で船を降りた後、戦局の悪化で小笠原兵団に送り込まれた方がいましてねえ、この方が戦後数十年経ってから父島にいらした時に案内させて頂いたんですよ。海軍ではハンモックで寝るという習慣が身についていたから、小笠原でも地べたで寝ることができなくて、ハンモックをこの3本のヤシの幹に固定して寝たというんですよ。父島でも爆撃は激しく、寝ているハンモックのすぐ近くに爆弾が落ちてもこの方は意固地で動かなかったそうです。この幹に傷があるでしょう、これは爆弾が炸裂して破片が食い込んだ跡です。」*
「この2本のヒメツバキの木は見事でしょう、大きさも形も似たり寄ったりで、寄り添うように生えて夫婦(めおと)のようでしょう。この2本の木に救われたという方がいました。連日の爆撃で身動きが取れない中、このヒメツバキの根元で戦友と故郷のことを語り合ったことが精神的に救いになったというのです。」*
板長さんが何十年もこの仕事に携わる中で培ってきた、この地で戦争を経験された方との繋がりにより、この地に実在したストーリーが語られる。
板長さんに頂いた資料によると、当時の父島における陸・海・空軍、軍属の総数はおよそ18,700人、今の父島の人口が2,000人近くだから、そのおよそ10倍にもなる、驚くべき数。このうちの戦没者数はおよそ4,500人近くにものぼるという。上陸戦こそなかったものの、特攻機、艦船・輸送船等乗組員、空爆被害、自爆等含めるとこれほどの数になるそうだ。
戦争の遺構を見るにつけて人力でこれらすべてを創り出した当時の人々の能力と苦労に驚嘆し、ここでの出来事に胸を痛める。
*板長さんの語りを、趣旨を外さないよう会話風に再現していますが、板長さんの語った言葉を厳密に再現しているわけではありません。
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