2007年12月29日土曜日

一年間ありがとうございました!

今年1年間は、自分自身にとって激動の1年間だった。
小笠原への赴任が決まったのは、昨年のちょうど今頃の時期。
今の会社を入社2年目にして、ひとり小笠原への赴任。

現地事務所の立ち上げから、仕事につけてもプライベートにつけても人間関係のゼロからの出発。日本にあって日本ではない小笠原、最初は右も左も分からず、身近に気軽に相談に乗ってくれる人もいない中で、大変なこともいっぱいあった。

あれからおよそ1年が経った今。2回目の事務所移転を完了し、今まで自宅兼事務所だったものを切り離し、広々とした事務所でアルバイトさん共々快適に仕事ができるようになった。世界遺産登録に向けたやりがいのある仕事に携わる中で得たかけがえのない仕事仲間、一緒に音楽をやり、毎週金曜日には必ず飲みに行くスイングブローの仲間達、そして2,000人に満たない人口の中で意外に多い29歳タメ年会の仲間達。内地では得られない、幅の広い人々との良い巡り会いに恵まれて、充実した日々を過ごしている。

この1年間で築き上げてきたものを振り返ると、とても感慨深いものがある。でもこれは決して自分ひとりの力で得たものではない、関わり合ってきた多くの人々から得てきた力のたまもの。不便だからこそ、日頃のご近所の助け合いが生きる場面が多い。大変だった場面を振り返ると、そのときに力を添えてくれた人達の顔が目に浮かぶよう。こんな全ての人々に対して、ありがとうと言いたい。懐の広い小笠原の人々に、感謝。そして、どれだけの方がご覧になっているのか分からないのですが、こんな独り言のようなブログを読んで頂き、ありがとうございました。

ひとまず今日の船で一旦内地へ行き、新年は5日に小笠原に戻る予定。

今年1年間で築き上げてきた土台の上に立って、小笠原のためになる仕事ができるよう、プライベートを楽しめるよう、そしてこのブログももっともっと充実させることができるよう、来年もまた頑張っていこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

それでは皆様、良いお年を!

鍋付きダイビング

かれこれもう1週間ちょっと前に遡った話。鍋付きダイビングに行ってきた。

パパスダイビング恒例のイベントダイビングのひとつ、鍋付きダイビング。
12月に入り、昼間の気温が20度前後とダイビングにはちょっと寒い。
水が冷たいということもあって、水から上がって風に当たると本当に寒い。
そんなときには、船の上での鍋が最高!

ダイビングの水面休憩時間にアカハタを釣って、そのダシに持ち寄った具材を放り込んでグツグツ煮てできあがり!今回は島の中学生も参戦ということで、賑やかなメンバーで鍋を囲んで、美味しく楽しいひとときを過ごしてきた。

シロワニの妊婦


星野さんアカハタをさばく


みんなで鍋を囲んで

2007年12月11日火曜日

変わりダネ写真

日曜日、島を巡って観光スポットというスポットの写真を撮りまくってきた。
一応仕事の目的のために。

父島の中には、周りをぐるりと見回せる峰が幾つかある。
その代表選手の中央山と旭山で、ぐるりと見回した360度パノラマ写真を撮ってみた。思いつきでぐるぐる回転しながら撮った写真を、Photoshopで適当に繋ぎ合わせただけなのだが。

写真を繋ぐときに、手前の被写体と遠景の被写体とで輪郭線がどうしてもずれてしまう。連続しているはずの空の色もくっきり線が入るほど違いが出てしまう。きれいなパノラマ写真を撮るためには、画角の微妙な調整、逆光と順光の露出調整などなど、細かいテクニックが求められそう。

旭山より

中央山より(手前は展望台に据え付けられた案内板)

2007年12月9日日曜日

島民だけの時間

明日、12日間のドックを終えたおがさわら丸が父島二見港に入港する。
おがさわら丸の往復の移動時間
2日間を含めて合計14日間、小笠原と内地との間で人の行き来はなく、貨物船共勝丸による物資補給が2回あったのみ。

こんな境遇にありながらも、意外にも、肉が手に入りにくかった以外に特に不自由を感じないで過ごしていた。実は不自由どころか、観光客がほとんどゼロ、誰もお客さんの相手をする必要のない状況で、島の人だけの、のんびりとした特別な時間が流れていたことを心地よく感じていた。

夕暮れ時に呑み屋を覗くと、ガラガラに空いた店内を広く陣取っている顔見知りの寛いだ姿が目に入る。

先週日曜日。波乗りの後、一緒に音楽をやっているスイングブローの仲間プラス国有林職員の面々でバーベキュー。今までバーベキューに、しかも日曜日に、次の日みんな仕事なのに、こんなに集まることなんてなかった。仕事はあってもお客さんを迎えるわけでもなく、心にゆとりがあるのか、夕方6時から日付が替わる頃までのんびりと呑み通し。この寛いだ感じがなんともいえない。

この時だけの、純然たる島民だけの時間。

話は変わって、先月の終りから、小笠原の航空路開設に向けた動きが活性化している。今月中旬に空港の必要性に関する住民意識調査、そこで必要性の合意が得られれば、PI(住民参加)のプロセスを経て計画を煮詰めていくことになる。

島の中には、便利を望む人もいればそうでない人もいる。将来航空路が開設されたとして、それによる変化には様々な側面がある。少なくとも、年に一度のおがさわら丸ドック入りという一大行事は、航空路の存在により、島の人の生活に今ほどの影響を及ぼさなくなるだろう。おがさわら丸の出航・入港という1週間のサイクルに刻まれた生活のリズムも変化していくものだろう。

これは良し悪しではなく、純粋に島民それぞれの価値観の問題。住民意識調査の結果がどう出るか、楽しみでもある。

波乗り日和

小笠原に来て、はじめて波乗りをしてきた。
先週土曜日に板の扱いや乗り方、こぎ方、立ち方をベタ凪ぎの扇浦で練習。その次の日曜日は快晴、初心者向けのマイルドな波に恵まれた小港で早速実践。半年越しの念
願がやっと叶った、感激の一日。

小笠原に赴任した2月から、なんとなく波乗りをやりたいと思っていた。小笠原の冬の海(12月下旬~6月上旬)は冷たく、そして荒れる。水が冷たいとダイビングには辛く、海が荒れるとシーカヤックは難しい。そうなると、いちばん楽しめる選択肢は波乗りになる。そう思って、島唯一の波乗りスクールであるRAOさんに、3月頃からずっとコンタクトをとっていた。ところが、週末行こうとする度にベタ凪ぎの海が待っている。そんなのを何度と無く繰り返して、ああ、もう自分は波に見放されているんだ、波乗りの適性はないのかも、と半分諦めかけていた矢先・・・。
波乗りというけれども、どちらかというと波に乗せてもらう、というニュアンスの方が強い。

水面に板を浮かべてうつ伏せに寝そべる。板を介して波と一体になって、ちゃぷちゃぷと揺れる感じが気持ちいい。沖へ出ようとパドリングをするにも、ガシガシと力ずくで漕ぐよりも、手のひらで丁寧に水を捉えてゆっくりと前から後ろに押すように、ゆるゆると漕いだ方がスムーズに前へ進む。

程よく沖へ出たら、押し寄せる波を眺める。波にはいろいろな大きさ、形があり、どれもが気持ちよく乗せてくれるような波ではない。まだド素人だから波の見極めができずに空振りすることのほうが多い。

さあ波に乗る!乗れそうな波を後ろに見て、今度はガシガシと漕いで必死で波のスピードまで持って行く。波頭の手前ちょっと下、いい場所にいいタイミングでいいスピードで付けるとスルスルと板が滑り出す。その瞬間に、腕立ての要領でバッと上体を起こして板の上に立つ。そして風を切る感覚がキモチイイ。

こんなふうに波に乗っている時間なんて、1日海に入っていたところで1分に満たない程度。だけど、予定に縛られた日常を捨てて、いろんな雑念を捨てて、全てを海に託すこの時間の過ごし方が気に入った。

2007年11月30日金曜日

ニクの日にありったけの肉

今日は1129日、ニクの日。

小笠原は何を買うにも値段が高い、スーパーで売っている肉も例にもれず。
でも、月に一度だけ、肉がお買い得な日がある。それがまさに、今日、この日。

おがさわら丸は1124日に去った便を最後にドック入り、次に来るのは2週間後の129日。それまでの間、不定期貨物船の共勝丸が2便ほどあるものの、生鮮食料品の輸送量は限られている。1124日におがさわら丸が去って以来、スーパー店頭の生鮮食料品がみるみる減っていく・・・。

とりあえず、24日のうちに冷蔵庫に入るだけのありったけの野菜を買い込んだ。でも、悲しいことに、閉店間際だったせいか、肉が全て売り切れていた(注)。次の日も、その次の日も・・・。

でも、今日は肉の日、絶対に肉を買ってやる、肉がゴロゴロ入ったカレーを食ってやる、そう自分に言い聞かせて1日を過ごした。小祝商店の閉店時刻は午後6時半。午後5時、仕事の打合せが始まる。こういう時に限って相手方が熱心で、6時過ぎても終わる気配なし。やばい、肉が買えなくなる。小祝商店は明日から2連休、肉ゴロゴロカレーは幻か?!

午後620分、なんとか終りにできそうな気配、話を無理矢理終わる方向へもって行く。625分、相手方の事務所を出る、すると親切にも事務所外側の廃棄物分別状況を説明してくれる、でも肉が買えなくなる・・・。

午後630分ギリギリ前、閉店準備中の小祝商店に滑り込む。肉、肉、肉・・・。閉店準備で消灯され、シートがかけられた肉コーナーに、かろうじて幾つかの肉のパックが残っていた。でも、あるのはニュージーランド産冷凍ラム肉薄切り、もつ加熱用、すきやき用薄切りオージービーフ・・・。なんだか寂しくて、全種類買ってしまった。

近くを通りかかった知り合いの店員さんに声をかけると、「ああ、肉ね、お昼ごろにはほとんど売り切れていたよ」だって・・・。おがさわら丸ドック入り中の島民の生存競争は熾烈を極める。

家に帰って、3種類の肉のパックを並べて、さて、どれをカレーに入れたものかと、しばらく葛藤した。

(注)小祝商店ではある程度の量の塊肉を仕入れて、その日売る分だけ切って店頭に並べているから、おがさわら丸が来ない間も、店頭の肉が消えたからといって小笠原に肉が全く無いわけではない。

2007年11月27日火曜日

シロワニを前から見ると・・・

alisa、コメントありがとう。
そのコメントにお応えして・・・
前から見たシロワニ。恐るべし!(マイミクのマゴさん撮影)

2007年11月25日日曜日

冷たい雨と熱々の豚汁

この一週間で小笠原の気候はがらりと変わった。
先週の日曜日は、内地の秋晴れを思わせる、抜けるように青い空と凪いだ海。
今週の日曜日は、内地の梅雨を思わせる、垂れ込めた雨雲からしとしとと断続的に降る雨と、風・うねりの強い海。


内地に強い冬型の気圧配置をもたらした低気圧が小笠原まで北の寒気を呼び込んだのか、ぐんと気温が下がった。ここ数日は前線が小笠原上空にあり、どんよりとした日が続いている。

そんな中、パパスダイビング企画の船上豚汁パーティーに参加してきました。水温も若干下がって24度、でもそれよりも水から上がって冷たい雨と風に打たれて体の芯まで冷えてしまうのがつらい。こんな逆境にあって、熱々の豚汁が骨身にしみて旨かった。

水中から海面を見上げると・・・

シロワニ(サメ)のシルエット

2007年11月21日水曜日

父島の隠れ絶景スポット

父島には表と裏がある。地形が比較的緩やかで、扇浦や小港など、穏やかなビーチが連なる北西側が表、急峻な地形でアクセスがなく、観光客があまり目にすることのない南東側が裏。表には市街地が発達し、海岸線を道路が走り、遊歩道も整備されている。一方裏には車道や遊歩道などは殆ど無く、戦前に利用されていた歩道跡や戦中の軍道跡の頼りない道筋を辿ってずいぶんと歩かなければ到達することができない。

この裏側に、知る人ぞ知る絶景スポットがある。海岸線には海抜およそ200メートルから海面に向けてズトーンと一気に落ち込む断崖絶壁が連なっている。この断崖に上って海を見下ろしたときの海の広さ、蒼さ、そしてそのスリル感がたまらない。ボートで下から見上げたときの迫力も捨てたものではない。

小笠原の秋

もう暫くブログを更新しないうちにずいぶんと季節が移り変わってしまった。今まで読んでいてくれていた方々も、もう見てはくれないのかなとも思いながらも再開することにします。

前回の更新は8月の夏真っ盛り、そして今は11月下旬。内地はもうすっかり寒くなって冬の装いのこの季節、小笠原ではまだ昼間は30度を越える真夏日が続いている。ところが、週末に久々に海に出てみると、以前は焼き付けるような日差しが、やさしい光線に変化している。空気はカラッとして、風も若干冷たくなっている。こんな微妙な変化に、小笠原にも秋が訪れているんだなと実感した。


海に潜ってみると・・・。水温はちょっと下がっているものの24度、まだまだ潜れる暖かさ。海流の切り替わりのタイミングのせいか、気温の低下にずいぶんと遅れて水温が下がる模様。海の中の様子も、心なしか真夏よりもちょっと穏やかになっているように感じる。

2007年8月14日火曜日

小笠原の盆踊り

小笠原の盆踊りは、お盆初めのこの時期に三晩連続で執り行われる。これが、今まで見てきたような内地の盆踊りとは違う、すごい盛り上がりをみせる。6時半の開始の時点では、やぐらの上で踊る人、そしてやぐらの周りでぱらぱらと踊る人がいるくらい。それが、8時を過ぎて後半に突入すると、やぐらを取り囲んで渦のような人だかりができる。島の人に観光客、みんな入り混じって汗だくになって一生懸命に踊っている。やっそもこれに混じって踊ってきた。盆踊りを真剣に踊るなんて生まれて初めてのこと、実際に自分で踊ってみるとかなり楽しいもの。今日は三晩の最終日、終盤は白熱して、アンコールが2回も飛んだ。盆踊りでアンコールなんて初めての体験。


ここの盆踊りでは、やぐらの上で太鼓を叩く人、やぐらの中段で踊る人、それを取り囲んで踊る人、そして屋台でカメ煮込みやかき氷を売る人に夏祭りの実行委員長、ほとんどみんな顔見知りで、地域のみんなでお祭りをつくりあげている感覚がする。毎年最終日には「生歌」というイベントがあって、島の人、内地から観光で来た人問わず、参加希望者がやぐらの最上段上に上り、音頭の歌を歌い、それに合わせてみんなで踊る。

傍観者は少数で、ほとんどが参加者。みんなでつくっている、そういう感覚が、このお祭りを盛り上げている秘訣なんだと思う。

2007年8月11日土曜日

水上の世界・水中の世界

今日の天気は荒れ模様、朝からスコールのような雨がザッと降ったり、そうかと思えば青空が見えたりの繰り返し。ダイビングのために朝から海に出ると、水上では強風で肌に叩きつける雨が痛い。

ところが、ひとたび水中に入ってしまえば、そこは水上の荒れ模様が嘘のように、平和でのどかな世界。


ツバメウオ


キンメモドキ


近頃、水中撮影用に、コンパクトデジタルカメラCanon IXY 900ISとウォータープルーフケースを入手したので、これからは、小笠原の水中世界の様子もお届けしたいと思います。

2007年8月10日金曜日

定点観測

生まれてこの方、こんなに狭い範囲にずっと留まったのは乳児以来のような気がする。赴任してはや半年、一度の内地出張と、偶に母島や聟島に行ったりダイビングで海に出たりする以外は、ずっと父島に留まっている。その父島の広さはというと、住んでいる場所が島のほぼ北端、そこから車道南端の小港まで、車でおよそ15分。

内地にいると、通勤だけでも1時間の移動、買い物に出たり友達と呑みに行ったり旅行に行ったり、とにかくよく移動する。ところが、ここ父島では徒歩圏内でほとんどの用が済んでしまう。景色のきれいな海岸も、1ヶ月もいればほとんど行き尽してしまう。そうなると、同じ場所に何度も行くことになる。

そして最近よく通っている場所が、前回の日記にもあるとおり、小港。仕事を終えて夕暮れ時に泳ぎに行ったり、週末の昼下がりに行ったり、本を読んだり楽器を練習したり写真をひたすら撮ったりしながらのんびり過ごしている。この場所がとても居心地のいい空間だからなのか、飽きることがない。その日その日で表情が違い、同じ日でも時間の移り変わりとともに表情が変わる。そんな風景の移ろいを写真で記録して並べてみると、こんなふうになる。

2007年8月2日木曜日

特別な場所

父島を走るバスの南側の終点に、小港はある。
父島で最も流域面積の広い、唯一まともな川といえる川である八瀬川が海に注ぐ場所に、小港の白い砂浜が広がっている。背後を壁のような急斜面の岩山に阻まれ、正面の湾は両脇を険しい岩肌の岬に囲まれて、他の浜とは違う、小港ならではの、特別の空間がある。

最近、この場所が気に入ってよく通っている。何も予定が入っていない土曜日に朝から夕方まで丸一日いることもあれば、仕事が早めに片付いた日の夕暮れ時にちょっと泳ぎに行くこともある。


ひとつの場所でも、天気や時の移ろいとともにいろいろな表情がある。強い陽射しに照らされてテカテカ光るモモタマナの木の葉の明るい緑色、まぶしいくらいの白い砂、そして陽の差す角度によって微妙に色を変化させる青い海。海の色は、青というか、どちらかというと水色に近い。夕暮れ時になると小港の正面に開けた狭い湾口にあつらえられたように沈んでゆく夕陽、陽が暮れた後の薄青色の空に瞬きはじめる星の数々。時間の経過とともにその星も数を増し、闇が訪れる頃には空が無数の星で埋め尽くされる。

2007年7月25日水曜日

ボニンブルーの季節

仕事が超多忙でブログを更新しているヒマもないうちに、2ヶ月が経って、その間に小笠原の季節も大きく変わった。

小笠原のこの季節を象徴する色は、青。小笠原独特の、濃く深く、それでいてどこまでも透き通った青色。この色は、島では俗にボニンブルーと呼ばれている。ボニン、とは、小笠原諸島の英語名に由来している。

小笠原は亜熱帯の島、気温の多少の変動で、暑い季節と暖かい季節の違いはあっても、内地の春夏秋冬のように、一目瞭然の四季というものがない。ところが、海には四季があるという。

これは前の日曜日にお世話になったFISH EYEというダイビングショップのオーナーである笠井さんから聞いた話。通常、熱帯~亜熱帯の海には、雨季と乾季の二季しかない。ところが小笠原の海には四季がある。小笠原諸島は北赤道海流と黒潮のふたつの海流の狭間にあり、その反流(本流から枝分かれして、渦を巻くように反対方向に流れる海流)が小笠原諸島を洗っている。12月~6月初旬にかけては、北から南下してくる黒潮の反流が優勢で、島の周りの水温は低く、それほど透明度は高くない。冬~春にかけて小笠原諸島近海で繁殖するザトウクジラは、この海流とともにやってくる。6月中旬~11月にかけては、南から北上してくる北赤道海流の反流が優勢で、島の周りの水温は高く、どこまでも透き通っている。雨季と乾季の二季、それに黒潮の季節と北赤道海流の季節の二季をかけて、小笠原の海には四季があるということになる。

この2ヶ月の間に、小笠原の海はこの季節の変化を経て、ボニンブルーに染まっている。沖へ出て、船の上から海を見下ろすと、海面に映る自分の影の輪郭線からはじまり、濃い青色の海中深くに向かってどこまでともなく続く光の筋が見える。海に潜って太陽を見上げると、太陽がまぶしい青色に見える。

2007年5月24日木曜日

人の住んだ痕跡

調査で山に入っていると、思いもよらぬ光景にハッと出くわすことがある。
一人で歩いていると、そんな光景も謎のまま、記憶の隅に追いやられてしまう。
ところが、この場所に詳しい、小笠原歴の長いガイドの方に案内してもらうと、そんな光景が意味を持ち、確かな記憶の中に焼きつくことがある。

今回の調査で案内をお願いしたガイドさんは、小笠原歴約30年、小笠原の、海ではなく、陸のガイドを始めた第一人者、ただ経歴が長いだけでなく、勉強熱心で、小笠原の歴史、生き物から雑学まで本当によく知っている方。

歩いている最中に、ガイドさんが茂みを指差して「これ、何だ??」と問いかける。指の指す方を見ると、きれいな赤い薔薇の花が咲いている。一目瞭然、「ば、薔薇?」。半信半疑で答える。小笠原にこんな花をつける自生の薔薇は無いはず。こんな山奥に薔薇があるなんて、思いもよらない。そう言われて辺りを見渡すと、古い石積み、ゲットウ(現在も切花等で用いられる園芸品種の植物)、グァバの木も並木のごとく連なって生えていることに気づく。間違いなく、人の住んだ痕跡。


この空間を見渡すと、人が住んでいた当時の光景が目に浮かぶ。この辺りの林を構成する木々の丈は低く、それほど立派な太い木は存在しない。当事、住人はここに畑を作っていたのだろう。斜面に石積みで土台を作り、家を建て、その周りに薔薇やゲットウを植えて花を愛で、グァバの実の季節の到来を楽しみにしていたに違いない。ガイドさんによると、確かな記録があるわけではないが、この場所には戦前に人が住んでいたという。


住人が去り、家が跡形も無く朽ち果て、石積みの家の土台の遺構が遺跡さながら残るだけになっても、住人が植えていた木や花は現在も生きて存在し続けている。時の流れと共に変化していくもの、その同じ時の流れを経ているにも関わらず、現在も当時と変わらず生き続けるもののコントラストが妙に新鮮だった。

2007年5月22日火曜日

小笠原産のハイビスカス

南の島と言えば、青い海、青い空、白い砂に真っ赤なハイビスカス。小笠原にも、もれなくこの赤いハイビスカスがある、というか、植えてある。そもそもハイビスカスとは、ハイビスカスの仲間の属名、Hibiscusのこと。園芸用に品種改良されたものから野生のものまで、様々な種がある。残念ながら、小笠原の赤いハイビスカスはハチジョウアカという園芸品種、小笠原諸島には外からもたらされた、いわば外来種。

ところが、小笠原には、ここにしかいない固有種のHibiscusがたくさん自生している。和名はテリハハマボウ、学名はHibiscus glaber Matsum.。この花の寿命はわずか1日、その1日の中でも色を変える。咲き始めは薄い黄色、時間が経つにつれて赤みが増し、夕方になって落ちる頃にはきれいなオレンジ色に変化している。
ザザッと降ったスコールのような雨で水を得て、そのあと急に降り注いできたまぶしい日差しに照らされて、今日咲いたばかりの淡い黄色の花も、昨日咲いて落ちてしまったのか、地面の上のオレンジ色の花も、瑞々しくきれいに見えた。

海と空のさかい目

近頃前線が小笠原付近に停滞している。
そのせいか、天気は崩れがち、1日のうちに、雨が降ったと思ったら突然まぶしい太陽が降り注いだり、雲が出て太陽が陰って肌寒くなったり、何日分もの天気の変化の繰り返し。こんな日には雲が海面スレスレまで重そうに垂れ込めている。

晴れていたら真っ青でどこまでとも知らない高い空も、こんな日には海面が海と空のさかい目、空がこんなに低くなるなんて。
小笠原の南西海上ではやくも台風2号が発生、この前線が台風を小笠原に導こうとしている。

2007年5月16日水曜日

絶景!

仕事のため、父島の南海岸に連なる絶壁の上をガイドさん同伴で歩いてきた。ここの景色は迫力満点、文字通り絶景! 海抜200mから垂直にストーンと海まで落ちる絶壁。久々に足がすくむ思いをした。


たつみのおかあちゃん

父島の奥村に、たつみ、という民宿がある。
5月10日から、調査のために同僚の本社スタッフが来てここに泊まっている。おがさわら丸の出航中はたつみのお客は彼ひとり、ひとり分の晩御飯をつくるのもなんだから、ということで、この民宿のおかみさんが、やっそも晩御飯に呼んでくれて、お言葉に甘えてお世話になっている。

晩御飯の時間には、彼とやっそが二人でご飯を食べている間中、おかみさんが横にいて3人で話をしながら、ゆったりとした時間が流れている。このおかみさんの人柄がとてもよくて、おかあちゃんと呼びたくなる。そして彼女の身の上話がなかなか面白い。

おかあちゃんが父島に来たのは、小笠原の日本返還直後、以来40年近くに亘って父島で暮らしている。「昔は大変だった~、今の小笠原は良くなりましたよ。」そんなセリフから小笠原の歴史の話が始まる。

昨日の晩御飯の時、13年前、小笠原にNHKののど自慢が来たときに、おかあちゃんの長女が優勝した話になった。「ビデオあるけど、見るかい?」。もちろん見る見る、ということで13年前のビデオの上映会が始まった。

このビデオが面白い。まず、ゲストで来ていた長山洋子が若すぎる。おかあちゃんの話では、長山洋子がアイドルから演歌歌手に転向した直後のようで、若いだけでなく、歌った参加者に対するコメントがテキトーすぎる。農協3人組が、何の曲だったかな、ダンス付きで踊った後、「ダンスがとにかくよかったですね~、私も一緒に入って踊りたくなりましたよ~」。明らかに口先だけのコメント、これを見て、へぇ~、この時代にはこんなテキトーなコメントが許されたんだ~、というようにびっくり。

参加者の中に、仕事でよくお世話になる村役場の方がいた。今は落ち着いて貫禄のある人だけど、13年前当事はまだ青年の風貌、それでも動きや雰囲気が今とあまり変わらないのがおかしい。この方以外にも、顔見知りの13年前を見ると相当笑える。のど自慢に出ているのが知り合いなんて、ほんとに小さな社会だな~、ということを実感。


この場所、そしてここに住む人々の考え方を知るためには歴史を知ることが欠かせない。おかあちゃんののんびりとした語り口に癒され、こんな小ネタに笑い、そして歴史を学んで、貴重な晩御飯の時間を過ごさせてもらった。おかあちゃん、ありがとう。

2007年5月13日日曜日

父島の生活事情(その3:引越し)

(注:その1、その2は2月7日のブログに記載あり)

今更ながら、引越しがこんなに大変だとは思わなかった。
2月7日、最初に小笠原に来たときは、家具や日用品すべて備え付けのアパートの1室に入るため、生活用品はダンボール2箱程度、ほかに仕事のための機材や資料が多少ある程度だった。この程度なら、宅急便で送付が可能。

今回、移転に当たって家具やら家電やら何から何まで自分で揃える必要があった。それに加えて、仕事の拡張に伴う備品の数々。これだけのボリュームになると宅急便での扱いは無理。ところが、小笠原行きの引越し便を扱っている運送会社はない。とある運送会社に特例で見積もってもらったところ、代金は16万円。あり得ない高価格。

仕方なしに、芝浦埠頭のおがさわら丸の貨物受け付け所に自ら車を運転して引越し荷物を運び、おがさわら丸積載用のコンテナに自ら詰め込んだ。まさか、こんなふうに、船が着く岸壁まで行って荷役を自らやることになるとは思わなかった。

このコンテナはおがさわら丸に積まれて父島二見港まで運ばれ、コンテナがおがさわら丸から降ろされると、積んだときと同様、自ら車をコンテナに乗り付けて積み替え、新居まで運ぶことになる。

父島生活の大変さを実感するとともに、内地であれば常日頃便利なサービスを提供してくれる運送業の人々に感謝!

物欲爆発!

4月20日から30日までの間、仕事の事情もろもろあって、2ヶ月半振りに内地に戻った。
まず驚いたこと。Pasmoのサービスが始まって、SUICAで私鉄もバスも何でも乗れるようになっていたこと。たった2ヵ月半なのにこの進歩。暫く島流しで浦島太郎状態だったことを改めて実感。

今回の内地帰還の目的のひとつは、小笠原で事務所を移転するために、必要な備品等々を買い込むことだった。そのために、GW前半は、ひたすらホームセンターやら巡り巡っていた。そうしていると、買うべきものは決まっているのに、それ以外のモノに目が移ってしょうがない。

小笠原にいると、ホームセンターなんてないし、それはそれで満足した生活を送っている。ところがひとたび内地のホームセンターに入ってみると、かゆいところに手が届くような便利アイテムの数々の陳列、しかも驚くような低価格。あれもほしい、これもほしい、こんなのあったら小笠原生活が楽しくなるな、そんなこんなで物欲が爆発!小笠原では考えられないような低価格の釣竿、釣った魚を燻製にするのにちょうどよさそうなスモーカー、新しい事務所にぴったりとフィットしそうな収納家具の数々、コンパクトにまとまるソファベッド、快適そうな寝具・・・。たぶん、今までの自分の人生の中で最も大量の買い物をした3日間だった。

内地には、生活に必要な便利用品は本当になんでもある。言葉通りかゆいところに手が届く感覚。生活に必要な工夫は、全て商品開発者がやってくれる。彼らの商品開発能力に敬服。そして、そんなモノに溢れている日本(内地)はすごい。

2007年4月4日水曜日

青灯台

父島の飲み屋街(とはいっても、飲み屋が数軒集まったこぢんまりとしたもの)の、海から向かって奥のほうに、青灯台というバーがある。外見は、呑み屋ともバーとも何も書いていない、薄暗くて何だかわからないようなもの。入り口のアプローチ脇には、灯台のレンズのようなガラスの玉の中に入った電球が点滅している、なんだか怪しげな雰囲気に誘われて、建て付けの悪い木製の戸を押し開けてみると・・・。
中には、隠れがのような、程よくひなびた木目調の温もりのある空間が広がっている。ここのマスターのお姉さんの爽やかな笑顔と語り口、そして音楽も落ち着いていてとてもいい。東京から1000km海を隔てて、こんなに居心地のいい場所を見つけたことが素直に嬉しい。

2007年4月2日月曜日

2007年3月25日日曜日

「島民にならなくっちゃね」

島在住30年になる、とある釣り船の船主の話を聞く機会があった。

船主曰く、「昔はよかったなぁ、この島ものんびりしていて、金儲けなんて考えるやつはそんなにいなくってさ。近頃の小笠原は、なんだか忙しくて、ギスギスしていて嫌だよ。」

30年前、彼が小笠原に来た当時は、小笠原への交通手段は、現在のおがさわら丸の前々代の「ちちじま丸」、東京から父島までの所要時間は約36時間。その後、1979年に初代「おがさわら丸」が就航、所要時間は29時間に短縮された。現在の「おがさわら丸」が就航したのはちょうど10年前の1997年。現在の所要時間は約25時間。近頃は空港建設の話も持ち上がっている。

民放のテレビが入るようになったのは、ほんの7年前の2000年、それまでは衛星放送を受信しなければ民放は見ることができなかった。

携帯電話が通じるようになったのは8年前の1999年、当時はNTTドコモの音声通話のみ、iモードやメールは使えなかった。2006年8月、ようやくFOMAプラスエリアとして、父島と母島の一部地域でiモードのメールやデータ通信等のサービスが利用できるようになった。

インターネットに関しては、衛星回線の高度化によりISDNまで利用可能であるが、常時接続のブロードバンドには対応していない。

ここ30年間の話、徐々にではあるけれど、小笠原は着実に内地に近づいてきている。


「空港とか通信とか、なんでそんなに速くしよう速くしようって頑張るんだろうね。みんな島が良くて島に来ているのに、便利なのが良かったら内地に帰りゃいいのに。島に来たら、島民にならなくっちゃね。」

ごもっともな話。近頃は日本国内の地域間格差が問題になっていて、少しでもこの格差を是正しようと、交通や通信等のインフラ整備に大金が投じられているけれども、必ずしも誰もがそれを良しと思っているわけではない模様。格差是正という名の下にインフラ整備が進むと、不便であるという条件の下に形成されている地域の特性が失われかねない。それをどう捉えるかは個人の価値観次第だけれども。

注1:船主のセリフについては、できるだけ意を汲むように再現していますが、一字一句同じというわけではありません。
注2:小笠原のインフラ発展の歴史については、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)」を参考にしています。

2007年3月17日土曜日

古典的な床屋

父島には床屋が1軒ある。美容室はというと、床屋の椅子が二つ並んでいる左側に、間仕切りで区切られた空間に椅子がひとつ、それが美容室になっている。髪が伸びたら、友達に切ってもらうか、ここに来るか、選択肢は二つ。

小笠原に来てもう1ヶ月、ずいぶん髪が伸びたから、まずは床屋に行ってみた。髪を切っているお兄さんは、推定年齢20代後半~30代半ば。結構若い。白衣のような作業着を着て、きっちりとマスクをつけて、切ってもらうこっちが緊張してしまう。

カットは極めて慎重、刈り上げの毛の揃いをしきりに意識している様子。カット後には生え際の産毛をナイフのような剃刀で剃り、顔剃りもきちんとやってくれる。腕前は確か。

さてと、仕上げはというと・・・。カットはベリーショートなのに、期待通り七三分けにしてくれた。鏡に映った七三分けの自分の顔を見て苦笑。お兄さん、「仕上げはどう致しましょうか?」。やっそ「何もしなくていいです、今日は休日なので」。

ヘアワックスはなさそうだし、下手に「ムースで」なんて言おうものなら、もっとくっきり七三になって、そんな自分を見て笑いをこらえられなくなりそうだった。

2007年3月15日木曜日

3月11日のつづき

さて、幾つ横顔が見えたでしょうか?

見れば見るほど人の顔に見えてくる。こじつけも含めて、11人の横顔が見えた。