マクドナルドのメガマック、ほっかほっか亭の塩天丼・・・。
普段は何とも思わないCMなのに、いざマックもほっかほっか亭もない小笠原に来てみると、無性に欲しくなる。
そんな感情を持った瞬間、情報もモノも何もないマラウイでの2年間の生活、そして、とあるNGOの調査に参加して訪れたネパールの山奥の村で、村随一のお金持ちの家のテレビの前に大勢の子供たちが集う光景を思い出した。


このふたつの村の生活水準を客観的に比較してみると、慢性的に食糧不足、エイズやコレラといった感染症が蔓延しているケープ・マクレアよりも、高い山々に囲まれ、水が豊富で穏やかな気候のために、食うに困らないだけの農産物がとれるナルチャン村のほうが、はるかに生活水準が高い。これはあくまで外部の者として、客観的に見たときの感覚。
一方で、実際に住んでいる人々の感覚はどうだろう?
小笠原・・・。日本だから、いくらモノがないとはいえ、どちらよりも物資ははるかに豊かで、生活に困ることはないけれど、状況はナルチャン村に近い。知らなければ、ないモノを欲しくなることはないのだと思う。だけど、知っているのに、そのモノがないと欲しくなってしまう。ないモノねだり、人間の物欲の本質かもしれない。
いざ、そんな状況に置かれてみて、ケープ・マクレアとナルチャン村の住人の感覚を考えてみると、客観的な目とは裏腹に、情報があるがために満たされない物欲を持ってしまうナルチャン村の住人ほうが、情報のないケープ・マクレアの住人よりも、「貧しい」という感覚を強く持っているのかもしれない、と思えてくる。
1 件のコメント:
こういう暮らしをしていて思うのは。
上を見たらきりがないということ。
同じ状況において、「あれがない、これがない」と、ないものに執着してため息をこぼすよりも、
そこにあるものを大切に思うほうが、楽しい人生が送れるような気がする。
小笠原にはマックもほか弁もないだろうけど、そのかわり、きれいな海がある。そこから獲れる新鮮な魚がある。そんな素晴らしいことってないよね。
そう自覚すれば、世界はどんなところでもいいところになる。
今いる状況をどう楽しんで、自分のものにするか。結局は自分の気持ちの持ち方だよね。
そんな気がするこのごろです。
コメントを投稿