2008年12月30日火曜日

マクロレンズの威力

11月の終わり、おがさわら丸のドックが明けた頃からしばらくの間、仕事で映像撮影の案内をしながら、自分でも固有植物の写真を撮り続けていた。11月は、小笠原の固有種のなかでもキク科の植物が多く開花する時期。木になったキク科植物ワダンノキなどの特殊な形態をもったもの、近年数が減っていて絶滅が危惧されるものなどなど、注目に値するものが特に多い。

ところが。

花が咲いたとはいっても、花はどれも極端に小さくて地味。

植物が花弁を発達させる最大の理由は、花粉を運んでくれるハチなどの訪花昆虫にアピールして、より高頻度で花粉を運んでもらうためであると考えられている。他の植物がハデな花をつけて訪花昆虫を惹きつけると、そうでない植物には寄ってこなくなる。そんな植物は繁殖に失敗し、子孫を残せず淘汰されていくという理論。

小笠原には、ハデな花を咲かせる在来の植物はそう多くない。6月頃、ムニンヒメツバキやクチナシなど、花が比較的ハデだったり強い芳香をもった植物の開花ピークがあるが、11月にはそういった花が特に少ない。小笠原の11月には、訪花昆虫を取り合う競争相手が多くなかったのか、この時期に咲くキク科の花はどれも小さくて地味。

そんな小さな花たちも、マクロレンズでギリギリまで寄って撮影すると、地味ながらも可憐な表情を見せてくれる。

ヘラナレン

ヘラナレンの花のアップ

ワダンノキ

ワダンノキの花のアップ

2008年11月16日日曜日

ドック中の食料調達

毎年恒例のおがさわら丸ドック入り。今年は11月5日に父島に入港したのを最後に、次の入港は来週日曜日、11月23日まではおがさわら丸が来ない。2週間以上の間、人や物資の行き来が途絶える。

先週の話になるが、この期間の食糧調達のために、スイングブローのメンバー5人で船釣りに行ってきた。サバの切り身をエサにした底釣り、狙うは幻の高級魚カッポレ。

朝に出発。午前中。糸を垂らすたびにひたすらホオアカクチビ、通称ショナクチが釣れる。カッポレのような回遊魚を釣るには潮回りの悪いときに限ってこの魚が釣れると、釣り船の船長は言う。まあ食える魚だけど、あまり有難くない獲物。

ところが昼を過ぎて一変、ポイントを変えたせいもあってカッポレが釣れだした。糸を垂らすたびに、ウメイロというまあ旨い魚が入れ食い、そして時折強いヒキでカッポレが当たる。大きさの割にヒキが強くて、リールを巻きながら竿を片手で支えられないくらいに引かれる。上げる頃には腕がヘロヘロに疲れて握力を失うが、この魚を上げた喜びはひとしお。港に戻るまでには、釣れた魚をデッキに広げると魚市場のような光景になるくらい、いっぱいの魚が釣れた。

カッポレ

ウメイロ

そして夜。皆で釣った魚を料理して持ち寄ってパーティー。やっぱりこれがいちばんの楽しみ。キツネベラの天ぷら、アオチビキのづけ握り寿司、アカハタの味噌汁などなど。旨かったぁ~。

幻の高級魚カッポレは、一晩寝かしたほうが旨いということで、次の日に料亭経験のある友人宅に持ち込んでお造りに。ヒキの強さだけでなく、味も別格。小笠原で食べた魚の中では間違いなくナンバーワン、本当においしかった。

内地から新鮮な食料品が来ないけど、その代わりに小笠原を釣って小笠原を食べた、幸せな1週間だった。

固有種の調査

10月の半ばから先週までのほぼ1ヶ月間、ひたすら現場仕事の連続だった。仕事の内容は、小笠原でも数の少ない希少な固有種や、それらに害を与える外来種などの調査。連日の現場仕事は大変ではあるけれども、珍しい昆虫や、とても数が少なくなった植物の開花など、そうそう見ることのできないワンシーンとの出会いがひとつの楽しみである。

とても数の少ない固有植物、ウチダシクロキの開花

これはわりと多くみられる固有の昆虫、ヒメカタゾウムシ

小笠原ではほぼどこにでもあるムニンヒメツバキの実。蜘蛛の糸にぶら下がって、三日月のような、シュールな情景に思わずシャッター。

ここ最近、小物の写真撮影にハマっている。もっと腕を磨いて、もっといい写真をこれからも掲載していきたいと思います。



2008年10月12日日曜日

海の中の色彩

小笠原にいていちばん不便を感じること。
それは、親しい友人の結婚式に出席できないこと。
年齢のせいもあって、最近友人の結婚式がたて続けにある。
なんとか仕事の都合を合わせて行こうと努力するのだけれど、いったん内地に行くと、船が週に1便しかないせいで10日間は戻ってこられない、さすがに10日間という長期間の仕事のやりくりをするのは難しく、どうにもならないことが多い。親しい友人の大事な人生の節目を、いっしょにお祝いしたいのに、それができないのが悲しい。

それはさておき、この連休にたて続けに2人の友人の結婚式に出席できないかわりに、ダイビングに行ってきた。砂地の上にイバラカンザシがわんさか付いた岩があって、何枚か写真を撮った。後で見てみると、フラッシュありとなしとで全く違う色彩であることに驚かされる。

フラッシュなし

フラッシュあり

水中は青の世界。それは、太陽から降り注ぐ光が水中に差し込むと、波長の長い赤系の光が水に吸収されてしまうから。フラッシュをたくと、赤系の光も含む、私たちが日常触れている白い光が対象に当たるため、対象が本来もつ色が写真に写る。


もしも、光の成分の一部がこのように水に吸収されず、空気中と同じ光が水中の生きものたちに当たるとしたら、どれだけ鮮やかな世界になるんだろう、そんなことを連想させるひとコマの写真。

2008年8月30日土曜日

兄島の乾性低木林

前回の投稿からはや一ヶ月が経ってしまった。早いものだ。
相変わらず気まぐれですみません。

8月中はひたすら現場の仕事が多かった。
そのひとつが、父島の北側に隣り合う兄島での調査。世界自然遺産登録を目指して、小笠原の生態系の重要な価値とされているものに、ずいぶん前の話で触れた陸産貝類のほかに、乾性低木林というものがある。

小笠原諸島は大陸と一度も陸続きになったことのない海洋島で、生き物たちはすべてはるばる海を渡って小笠原に辿りついた。植物に関しては、日本本土ではなく、東南アジア系に起源をもつものが70%もあるという。こうした渡ってきた植物たちが、長い年月をかけて出身地よりも雨が少なく乾燥した小笠原の気候に適応していく中で、多くの種が出身地の祖先とは違う形態や特徴をもつ新たな種に分化し、小笠原の固有種となった。

兄島の乾性低木林は、こうして小笠原で独自に進化してきた固有植物種の宝庫。日本では他には見ない、独特な景観がある。種によって葉の色がずいぶんと違い、遠く見渡すといろんな緑色のモザイク模様がきれい。




コバノアカテツの新葉。これは固有種ではないが、この赤褐色のビロードのような質感が好きだ。

2008年7月27日日曜日

父島の太平洋戦争

太平洋戦争中の父島に何があったのか、実はあまり知られていない。
父島には、どんなに山奥へ行っても至る所に壕があり、海岸には海に向けて銃眼が連なっている。やっそが島に来て1年半、友人や旧来島に住む人との話のなかでは「父島は上陸戦がなかったから戦死者はほとんどいない」、霊感のある人によると「そこらじゅうに兵隊さんが見える、暗い雰囲気がある」など、どれが本当ともつかない話ばかり。ここには戦時中の記録がないから、一般に知られる事実というものがない。

やっそは、今年1月に吉村昭著の「脱出」を読んで以来、戦時中の父島の実情について強く関心を持つようになった。この「脱出」という著作には、戦時中から終戦に向けての過酷な時代について、それぞれ異なる境遇を生きる人の視点で1編1編綴られた等身大のストーリーがある。当時を生きた人にとって戦争とは何だったのかについて克明に描かれている。

先月訪れた硫黄島での出来事を知るにつけて、父島への関心をいっそう深めた。ここで何があったのか、当時を生きる人にどんなストーリーがあったのか?

そんな疑問に答えを与えてくれたのが、皆から板長(いたちょう)さんと呼ばれている、島で戦跡のガイドをされている方。丸一日の戦跡ツアーに友人と参加して、当時通信施設など軍の重要拠点が置かれていた夜明山周辺を散策した。

板長さんの後を歩いて行くと、普段何気なく車で通過していた場所のすぐ脇に壕があることに気づく。真っ暗な壕の中を電灯で照らしながら進んでゆくと、先に明かりが見えてくる。明かりは銃眼から差し込んでいるもので、その銃眼から顔を出すと、驚くことに入った側とは反対側の海が広く見渡せる。壕は暗く迷路のように入り組んでいて、ただでさえ方向感覚を見失うのに、この繰り返しで自分の現在位置を完全に見失う。



銃眼と据えられたままの平射砲。壕内に大量の水が溜まって鏡のように反射している。

銃眼の外側から見た平射砲

銃眼から眺めた父島二見湾

爆撃により2階の床が抜け大破した元海軍司令部の建物。爆撃時に本部は既に山中の壕内に移転しており、人的な被害はなかったそうだ。


トロッコを走らせたレールが残る壕、当時発電施設があった壕、炊事場だった壕、そして今なお砲身が完全に近い状態で残る銃眼。壕内に電灯をつけるための支柱、兵隊さんの荷物を置いたスノコ状の板、ヘルメットをかけたフック。目にするもの一つひとつについて丁寧な説明があり、その一つひとつが意味を持ち、当時の様子が思い浮かぶ。

そこには、今まで自分が知っていた父島とは全く別の世界が広がっていて、タイムスリップしたような、狐につままれたような感覚になる。

「ここにビロウ(ヤシの仲間)の木が3本あるでしょう、戦争初期に海軍に5年間所属し、任期満了で船を降りた後、戦局の悪化で小笠原兵団に送り込まれた方がいましてねえ、この方が戦後数十年経ってから父島にいらした時に案内させて頂いたんですよ。海軍ではハンモックで寝るという習慣が身についていたから、小笠原でも地べたで寝ることができなくて、ハンモックをこの3本のヤシの幹に固定して寝たというんですよ。父島でも爆撃は激しく、寝ているハンモックのすぐ近くに爆弾が落ちてもこの方は意固地で動かなかったそうです。この幹に傷があるでしょう、これは爆弾が炸裂して破片が食い込んだ跡です。」*

「この2本のヒメツバキの木は見事でしょう、大きさも形も似たり寄ったりで、寄り添うように生えて夫婦(めおと)のようでしょう。この2本の木に救われたという方がいました。連日の爆撃で身動きが取れない中、このヒメツバキの根元で戦友と故郷のことを語り合ったことが精神的に救いになったというのです。」*

板長さんが何十年もこの仕事に携わる中で培ってきた、この地で戦争を経験された方との繋がりにより、この地に実在したストーリーが語られる。

板長さんに頂いた資料によると、当時の父島における陸・海・空軍、軍属の総数はおよそ18,700人、今の父島の人口が2,000人近くだから、そのおよそ10倍にもなる、驚くべき数。このうちの戦没者数はおよそ4,500人近くにものぼるという。上陸戦こそなかったものの、特攻機、艦船・輸送船等乗組員、空爆被害、自爆等含めるとこれほどの数になるそうだ。

戦争の遺構を見るにつけて人力でこれらすべてを創り出した当時の人々の能力と苦労に驚嘆し、ここでの出来事に胸を痛める。

*板長さんの語りを、趣旨を外さないよう会話風に再現していますが、板長さんの語った言葉を厳密に再現しているわけではありません。



2008年7月20日日曜日

看板

そういえば、以前3月22日のブログで掲載した製作途中の事務所の看板が、実は6月中旬に完成していた。あれからおよそ3ヶ月、あまりにも時間が経ち過ぎてブログに掲載することもすっかり忘れていた。

コペペの浜で伐採されたテリハボクの丸太を拾ってきて、チェーンソーでスライスして、やすりがけして平らにして、彫刻刀で彫って文字上面を焼いてニスをかけて、漸くできあがった。道のりは長かったけど、この赤味のきれいなテリハボクの木目を見るにつけて、想像以上の出来の良さを見るにつけて大満足。

勤務先の会社が初めて明かされてしまうが、せっかくなので写真を掲載させてもらいます。

看板製作にご協力頂いた方々、ありがとうございました。お陰様です!