2007年5月24日木曜日

人の住んだ痕跡

調査で山に入っていると、思いもよらぬ光景にハッと出くわすことがある。
一人で歩いていると、そんな光景も謎のまま、記憶の隅に追いやられてしまう。
ところが、この場所に詳しい、小笠原歴の長いガイドの方に案内してもらうと、そんな光景が意味を持ち、確かな記憶の中に焼きつくことがある。

今回の調査で案内をお願いしたガイドさんは、小笠原歴約30年、小笠原の、海ではなく、陸のガイドを始めた第一人者、ただ経歴が長いだけでなく、勉強熱心で、小笠原の歴史、生き物から雑学まで本当によく知っている方。

歩いている最中に、ガイドさんが茂みを指差して「これ、何だ??」と問いかける。指の指す方を見ると、きれいな赤い薔薇の花が咲いている。一目瞭然、「ば、薔薇?」。半信半疑で答える。小笠原にこんな花をつける自生の薔薇は無いはず。こんな山奥に薔薇があるなんて、思いもよらない。そう言われて辺りを見渡すと、古い石積み、ゲットウ(現在も切花等で用いられる園芸品種の植物)、グァバの木も並木のごとく連なって生えていることに気づく。間違いなく、人の住んだ痕跡。


この空間を見渡すと、人が住んでいた当時の光景が目に浮かぶ。この辺りの林を構成する木々の丈は低く、それほど立派な太い木は存在しない。当事、住人はここに畑を作っていたのだろう。斜面に石積みで土台を作り、家を建て、その周りに薔薇やゲットウを植えて花を愛で、グァバの実の季節の到来を楽しみにしていたに違いない。ガイドさんによると、確かな記録があるわけではないが、この場所には戦前に人が住んでいたという。


住人が去り、家が跡形も無く朽ち果て、石積みの家の土台の遺構が遺跡さながら残るだけになっても、住人が植えていた木や花は現在も生きて存在し続けている。時の流れと共に変化していくもの、その同じ時の流れを経ているにも関わらず、現在も当時と変わらず生き続けるもののコントラストが妙に新鮮だった。

2007年5月22日火曜日

小笠原産のハイビスカス

南の島と言えば、青い海、青い空、白い砂に真っ赤なハイビスカス。小笠原にも、もれなくこの赤いハイビスカスがある、というか、植えてある。そもそもハイビスカスとは、ハイビスカスの仲間の属名、Hibiscusのこと。園芸用に品種改良されたものから野生のものまで、様々な種がある。残念ながら、小笠原の赤いハイビスカスはハチジョウアカという園芸品種、小笠原諸島には外からもたらされた、いわば外来種。

ところが、小笠原には、ここにしかいない固有種のHibiscusがたくさん自生している。和名はテリハハマボウ、学名はHibiscus glaber Matsum.。この花の寿命はわずか1日、その1日の中でも色を変える。咲き始めは薄い黄色、時間が経つにつれて赤みが増し、夕方になって落ちる頃にはきれいなオレンジ色に変化している。
ザザッと降ったスコールのような雨で水を得て、そのあと急に降り注いできたまぶしい日差しに照らされて、今日咲いたばかりの淡い黄色の花も、昨日咲いて落ちてしまったのか、地面の上のオレンジ色の花も、瑞々しくきれいに見えた。

海と空のさかい目

近頃前線が小笠原付近に停滞している。
そのせいか、天気は崩れがち、1日のうちに、雨が降ったと思ったら突然まぶしい太陽が降り注いだり、雲が出て太陽が陰って肌寒くなったり、何日分もの天気の変化の繰り返し。こんな日には雲が海面スレスレまで重そうに垂れ込めている。

晴れていたら真っ青でどこまでとも知らない高い空も、こんな日には海面が海と空のさかい目、空がこんなに低くなるなんて。
小笠原の南西海上ではやくも台風2号が発生、この前線が台風を小笠原に導こうとしている。

2007年5月16日水曜日

絶景!

仕事のため、父島の南海岸に連なる絶壁の上をガイドさん同伴で歩いてきた。ここの景色は迫力満点、文字通り絶景! 海抜200mから垂直にストーンと海まで落ちる絶壁。久々に足がすくむ思いをした。


たつみのおかあちゃん

父島の奥村に、たつみ、という民宿がある。
5月10日から、調査のために同僚の本社スタッフが来てここに泊まっている。おがさわら丸の出航中はたつみのお客は彼ひとり、ひとり分の晩御飯をつくるのもなんだから、ということで、この民宿のおかみさんが、やっそも晩御飯に呼んでくれて、お言葉に甘えてお世話になっている。

晩御飯の時間には、彼とやっそが二人でご飯を食べている間中、おかみさんが横にいて3人で話をしながら、ゆったりとした時間が流れている。このおかみさんの人柄がとてもよくて、おかあちゃんと呼びたくなる。そして彼女の身の上話がなかなか面白い。

おかあちゃんが父島に来たのは、小笠原の日本返還直後、以来40年近くに亘って父島で暮らしている。「昔は大変だった~、今の小笠原は良くなりましたよ。」そんなセリフから小笠原の歴史の話が始まる。

昨日の晩御飯の時、13年前、小笠原にNHKののど自慢が来たときに、おかあちゃんの長女が優勝した話になった。「ビデオあるけど、見るかい?」。もちろん見る見る、ということで13年前のビデオの上映会が始まった。

このビデオが面白い。まず、ゲストで来ていた長山洋子が若すぎる。おかあちゃんの話では、長山洋子がアイドルから演歌歌手に転向した直後のようで、若いだけでなく、歌った参加者に対するコメントがテキトーすぎる。農協3人組が、何の曲だったかな、ダンス付きで踊った後、「ダンスがとにかくよかったですね~、私も一緒に入って踊りたくなりましたよ~」。明らかに口先だけのコメント、これを見て、へぇ~、この時代にはこんなテキトーなコメントが許されたんだ~、というようにびっくり。

参加者の中に、仕事でよくお世話になる村役場の方がいた。今は落ち着いて貫禄のある人だけど、13年前当事はまだ青年の風貌、それでも動きや雰囲気が今とあまり変わらないのがおかしい。この方以外にも、顔見知りの13年前を見ると相当笑える。のど自慢に出ているのが知り合いなんて、ほんとに小さな社会だな~、ということを実感。


この場所、そしてここに住む人々の考え方を知るためには歴史を知ることが欠かせない。おかあちゃんののんびりとした語り口に癒され、こんな小ネタに笑い、そして歴史を学んで、貴重な晩御飯の時間を過ごさせてもらった。おかあちゃん、ありがとう。

2007年5月13日日曜日

父島の生活事情(その3:引越し)

(注:その1、その2は2月7日のブログに記載あり)

今更ながら、引越しがこんなに大変だとは思わなかった。
2月7日、最初に小笠原に来たときは、家具や日用品すべて備え付けのアパートの1室に入るため、生活用品はダンボール2箱程度、ほかに仕事のための機材や資料が多少ある程度だった。この程度なら、宅急便で送付が可能。

今回、移転に当たって家具やら家電やら何から何まで自分で揃える必要があった。それに加えて、仕事の拡張に伴う備品の数々。これだけのボリュームになると宅急便での扱いは無理。ところが、小笠原行きの引越し便を扱っている運送会社はない。とある運送会社に特例で見積もってもらったところ、代金は16万円。あり得ない高価格。

仕方なしに、芝浦埠頭のおがさわら丸の貨物受け付け所に自ら車を運転して引越し荷物を運び、おがさわら丸積載用のコンテナに自ら詰め込んだ。まさか、こんなふうに、船が着く岸壁まで行って荷役を自らやることになるとは思わなかった。

このコンテナはおがさわら丸に積まれて父島二見港まで運ばれ、コンテナがおがさわら丸から降ろされると、積んだときと同様、自ら車をコンテナに乗り付けて積み替え、新居まで運ぶことになる。

父島生活の大変さを実感するとともに、内地であれば常日頃便利なサービスを提供してくれる運送業の人々に感謝!

物欲爆発!

4月20日から30日までの間、仕事の事情もろもろあって、2ヶ月半振りに内地に戻った。
まず驚いたこと。Pasmoのサービスが始まって、SUICAで私鉄もバスも何でも乗れるようになっていたこと。たった2ヵ月半なのにこの進歩。暫く島流しで浦島太郎状態だったことを改めて実感。

今回の内地帰還の目的のひとつは、小笠原で事務所を移転するために、必要な備品等々を買い込むことだった。そのために、GW前半は、ひたすらホームセンターやら巡り巡っていた。そうしていると、買うべきものは決まっているのに、それ以外のモノに目が移ってしょうがない。

小笠原にいると、ホームセンターなんてないし、それはそれで満足した生活を送っている。ところがひとたび内地のホームセンターに入ってみると、かゆいところに手が届くような便利アイテムの数々の陳列、しかも驚くような低価格。あれもほしい、これもほしい、こんなのあったら小笠原生活が楽しくなるな、そんなこんなで物欲が爆発!小笠原では考えられないような低価格の釣竿、釣った魚を燻製にするのにちょうどよさそうなスモーカー、新しい事務所にぴったりとフィットしそうな収納家具の数々、コンパクトにまとまるソファベッド、快適そうな寝具・・・。たぶん、今までの自分の人生の中で最も大量の買い物をした3日間だった。

内地には、生活に必要な便利用品は本当になんでもある。言葉通りかゆいところに手が届く感覚。生活に必要な工夫は、全て商品開発者がやってくれる。彼らの商品開発能力に敬服。そして、そんなモノに溢れている日本(内地)はすごい。