2007年3月25日日曜日

「島民にならなくっちゃね」

島在住30年になる、とある釣り船の船主の話を聞く機会があった。

船主曰く、「昔はよかったなぁ、この島ものんびりしていて、金儲けなんて考えるやつはそんなにいなくってさ。近頃の小笠原は、なんだか忙しくて、ギスギスしていて嫌だよ。」

30年前、彼が小笠原に来た当時は、小笠原への交通手段は、現在のおがさわら丸の前々代の「ちちじま丸」、東京から父島までの所要時間は約36時間。その後、1979年に初代「おがさわら丸」が就航、所要時間は29時間に短縮された。現在の「おがさわら丸」が就航したのはちょうど10年前の1997年。現在の所要時間は約25時間。近頃は空港建設の話も持ち上がっている。

民放のテレビが入るようになったのは、ほんの7年前の2000年、それまでは衛星放送を受信しなければ民放は見ることができなかった。

携帯電話が通じるようになったのは8年前の1999年、当時はNTTドコモの音声通話のみ、iモードやメールは使えなかった。2006年8月、ようやくFOMAプラスエリアとして、父島と母島の一部地域でiモードのメールやデータ通信等のサービスが利用できるようになった。

インターネットに関しては、衛星回線の高度化によりISDNまで利用可能であるが、常時接続のブロードバンドには対応していない。

ここ30年間の話、徐々にではあるけれど、小笠原は着実に内地に近づいてきている。


「空港とか通信とか、なんでそんなに速くしよう速くしようって頑張るんだろうね。みんな島が良くて島に来ているのに、便利なのが良かったら内地に帰りゃいいのに。島に来たら、島民にならなくっちゃね。」

ごもっともな話。近頃は日本国内の地域間格差が問題になっていて、少しでもこの格差を是正しようと、交通や通信等のインフラ整備に大金が投じられているけれども、必ずしも誰もがそれを良しと思っているわけではない模様。格差是正という名の下にインフラ整備が進むと、不便であるという条件の下に形成されている地域の特性が失われかねない。それをどう捉えるかは個人の価値観次第だけれども。

注1:船主のセリフについては、できるだけ意を汲むように再現していますが、一字一句同じというわけではありません。
注2:小笠原のインフラ発展の歴史については、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)」を参考にしています。

2007年3月17日土曜日

古典的な床屋

父島には床屋が1軒ある。美容室はというと、床屋の椅子が二つ並んでいる左側に、間仕切りで区切られた空間に椅子がひとつ、それが美容室になっている。髪が伸びたら、友達に切ってもらうか、ここに来るか、選択肢は二つ。

小笠原に来てもう1ヶ月、ずいぶん髪が伸びたから、まずは床屋に行ってみた。髪を切っているお兄さんは、推定年齢20代後半~30代半ば。結構若い。白衣のような作業着を着て、きっちりとマスクをつけて、切ってもらうこっちが緊張してしまう。

カットは極めて慎重、刈り上げの毛の揃いをしきりに意識している様子。カット後には生え際の産毛をナイフのような剃刀で剃り、顔剃りもきちんとやってくれる。腕前は確か。

さてと、仕上げはというと・・・。カットはベリーショートなのに、期待通り七三分けにしてくれた。鏡に映った七三分けの自分の顔を見て苦笑。お兄さん、「仕上げはどう致しましょうか?」。やっそ「何もしなくていいです、今日は休日なので」。

ヘアワックスはなさそうだし、下手に「ムースで」なんて言おうものなら、もっとくっきり七三になって、そんな自分を見て笑いをこらえられなくなりそうだった。

2007年3月15日木曜日

3月11日のつづき

さて、幾つ横顔が見えたでしょうか?

見れば見るほど人の顔に見えてくる。こじつけも含めて、11人の横顔が見えた。








































2007年3月11日日曜日

横顔岬

この岬の正式名称は饅頭岬。読んで字のごとく、饅頭みたいな形をしているから。
でもよくよく見てみると、人の横顔が幾つも見えてくる。名づけて横顔岬。
さて、あなたは幾つの横顔を見つけられるでしょうか??

2007年3月7日水曜日

人のいない街

小笠原への唯一の交通手段、おがさわら丸は6日で東京の竹芝と父島の二見港を1往復している。竹芝を出て太平洋上で1泊、二見港に到着して3泊、二見港を出て太平洋上で1泊、竹芝に到着して1泊、そして翌日にまた竹芝から二見港に向けて発つというスケジュール。

近頃は学生の春休みシーズンとザトウクジラのシーズンが重なって、おがさわら丸の乗客数が回を追うごとに増えている。毎回、おがさわら丸が二見港に入港する日になると、朝8時の村内有線放送で、おがさわら丸の乗客数が放送される。今回はなんと473名。島の人口が2000人程度だから、おがさわら丸が二見港に着岸している3泊4日の間は島の人口の約5分の1が観光客という計算になる。

村の飲食店やツアーガイドは、この3泊4日の間はフル稼働。そしておがさわら丸が去ると皆いっせいに休息に入り、街の中にはうそのように人がいなくなる。

小笠原に来たばかりの頃、ほんの1ヶ月前のことだけれど、この、潮が引いた後のうそのような静けさをたまらなく寂しく感じていた。

1ヶ月が経ち、こんな島の生活のリズムに少しずつ順応してくると、潮が引いた後も、人がいないながらも街の飲み屋は営業中、中から聞こえてくる、繁忙期を乗り越えてくつろいでいる島の人たちのゆったりとした笑い声に安らぎを感じる。

透明という色


2007年3月3日土曜日

歴史の中に埋もれた村

父島の周回道路の南端にある小港海岸で車を降り、遊歩道を歩いて標高100m程度の中山峠を越え、また海岸まで下りてきたところに、ブタ海岸がある。遊歩道はこのままブタ海岸を南方向に横切り、さらに南のジョンビーチ、ジニービーチへと続いている。ジョンビーチ、ジニービーチはカルスト地形とサンゴの破片から成る真っ白な砂を目当ての観光客の目指す所。流木がそこらじゅうに横たわり、砂の色が灰色で、どことなく殺風景なブタ海岸には目もくれず、人々は通り過ぎていく。

このブタ海岸に注ぎ込む南袋沢という小川を遡上してみた。

南袋沢は、流路長1.5km程度、それでも東西の幅が4km程度しかない小さな父島の中では比較的まともな河川。この約1.5kmの小川の両脇に、高さ100m程の崖が切り立っている。崖の上を通る遊歩道からこの谷間を見下ろすと、一面緑の草木に覆われていて、それ以外は何も無いように見える。

ところが、この谷間を流れる南袋沢を遡上してみると・・・。


緑の木々の下には崩れかけた石垣、石畳の道、そして井戸の跡。まさに、人々が生活していた跡。石垣や石畳の間にはガジュマルの根が張り、井戸は崩れて底が見え、遺跡そのもの。

南袋沢の川べりに残された石垣。

南袋沢の水面に写るガジュマルの木。写真左上のゴロゴロとした石の並びが石畳の道の遺構。


井戸の遺構。

この場所の歴史を紐解いてみると・・・。戦前にはこの場所には袋沢村という集落市街があり、捕鯨や漁業等で栄えていた。それが、戦時中には父島全島の要塞化のために人々は疎開、戦後は長らくアメリカの占領下にあり、小笠原諸島の日本返還後にも復興されることはなかった。

ほんの60年ちょっと前の話、それなのに、家の跡形も無く、石の構造物の残骸しか残されていない。戦時中にこの場所で何があったのかは知らない。自然の力による風化でこんなになってしまうものなのか・・・。時間の流れという力の大きさを感じた。