2011年2月23日水曜日

ブログサイト引っ越します

エチオピアからのブログ更新を始めました!
今までのBloggerはデザインがきれいで好きだったのですが、エチオピアからだと何故か更新ができないので、Excite blogに引っ越しました↓↓↓
http://yasuoafro.exblog.jp/14295513/

今後ともよろしくお願いします!

2010年7月12日月曜日

ロンドン動物園

田舎町カンタベリーからロンドンに出てきたついでに、ロンドン動物園に行ってきた。

こっちで生物多様性保全の勉強をしていると、Zoological Society of London、ロンドン動物園協会という名をしょっちゅう耳にする。それもそのはず、これは野生動物の調査研究に関しては世界でトップクラスの研究実績をもつ機関で、「動物園協会」の名に収まらず、世界各地で野生動物の調査研究や絶滅危惧種の保全活動をしている。

そんなわけでロンドン動物園には前々から行ってみたいと思っていたものが、やっと実現した。園内を回ってみると、見たことのない鳥やらカエルやら小型のサルやら、いろんな動物がいる。このそれぞれの動物について、その生息地や習性、絶滅の危険性や脅威などなど、丁寧な説明書きがあることに感心する。

なかでも徹底していたのはゴリラのコーナー。大きな板に、中央~東アフリカの国々で実施されている幾つかのゴリラの保全プログラムについて説明書きがあって、そのそれぞれの欄にボタンが付いている。訪問客が1ポンドを投入して、このボタンを押すことで好みの保全プログラムに募金できるという仕組み。この仕組み、単に募金を集めるというだけではなくて、どんなプログラムが動物園に来る大衆の支持を得ることができるのかを調査するにはうってつけのもの。ロンドン動物園たるもの、単なる募金に終始するはずはない。誰かがこの仕組みを使って調査をして論文を書くはず。そう思うと、この募金調査の結果に興味が向く。


ロンドン動物園は展示の作りがよくできていて、単に動物園訪問客としていろんな動物を眺めるだけでもいろんな発見があって楽しい。僕のように普段から動物保全関係の論文に埋もれた生活をしていると、文字上の動物が目の前に現れて動き回っているのを見てひとしおの感動があり、リアリティが持てる良い機会。


ピグミーコンサート

インドでのフィールドワークから、7月7日にイギリスに戻ってきた。戻ってきてみると、イギリスはすっかり夏の盛り。出発前と比べると日差しもずいぶん強くなっている様子。

そんな中、ロンドンで活動しているピアニスト松本さやかさんと、人類学者で長らく中央アフリカはカメルーンの熱帯雨林に住むピグミーの研究をしている服部志帆さんとが共演するチャリティーイベントを見に、先日7月9日にロンドンまで行ってきた。

服部さんが大学生の時、自然とともにあるピグミーの人びとの暮らしに触れたくて、単身でアフリカの熱帯雨林に飛び込んで行ってピグミーの人びととともに暮らし始めた体験談やそこでの人びとの暮らしの様子について、スライドショーを交えて臨場感のあふれるトークがあり、その間あいだには松本さんのピアノ演奏。服部さんの語るストーリーにぴったりと寄り添うような演奏で、なかには松本さん自作の曲もたくさん含まれていた。


ピグミーの人びとがどれだけ心やさしく、平等であることを大切にする人たちなのか、物をほとんど持たず、シンプルながらも心豊かな生活をしているのかということが、服部さんのトークを通してよく伝わってくる。なかでも印象的だったのが、彼らが森の中で狩猟採集の移動生活をする時には、生活必需品がすべてちいさなひとつのバスケットに収まってしまうこと。ゲストで来ていた服部さんの師匠、ロンドン大学の教授はこれをTechnological minimalism、必要最小限主義と呼んでいた。


ピグミーの人たちが古くから持つ音楽と踊りの文化は素晴らしく、古代エジプトのとあるファラオはこれを伝え聞いて、God of dancers、踊りの神と称して下臣に招へいするように命じたとか。松本さん曰く、彼らの音楽の素晴らしさはポリフォニーにあるとのこと。通常僕たちが耳にする音楽はモノフォニーといって、メロディーが主役でそれに伴奏が伴うというスタイルであるのに対して、ポリフォニーでは音楽を構成するひとつひとつの音の成分がそれぞれに奏でながらも、全体としてひとつの音楽になる。ピグミーの素晴らしいポリフォニーの根源には、平等を重んじ、主従関係を作らない彼らの社会生活があるのではないかというのが松本さんの解釈。なるほど、説得力がある。


ピグミーについては今までも論文をいくつか読んではいたけれども、そうやって単に情報として頭に入れるのと、こうやって物語、写真、そして音楽の三つの要素で体感するのとでは全く違う。ピグミーには未だ会ったこともないけれど、彼らが親しく思えるようになった素敵なイベントだった。

多くのピグミーの生活は、熱帯雨林の減少とともに危機にさらされている。ピグミーの人たちの生活を守るためにも、そしてその生活の場である熱帯雨林を守るためにも、マイノリティーであるピグミーのファンの輪を広げる松本さんと服部さんのような活動はとても大事。こんな活動を通して、ピグミーのように自然とともに生きる人たちから僕らが学ぶことは多い。

2010年7月4日日曜日

母の味


ハシャール君の家の晩御飯。お母さん手作りの味で、ほんとにおいしかった。やっぱり、レストランより家庭の味がおいしい。


ついでに家族と一緒の記念写真。ハシャール君のお父さんもお母さんも、いつも穏やかな笑顔が素敵な人たちで、家族愛を感じる温かい家庭だった。前に農村に滞在していた時のサドワリの一家にしても、素敵な人たちとの出会いに恵まれている。

調査が終わったら!

今回の調査は、ひたすら人相手のインタビュー調査。小笠原にいたころからこの方、ずっと現場で野生の植物や動物を相手に仕事をしてきたものだから、やっぱり自然を見たい。そんなわけで、インタビュー調査が完了した暁に、マハバレシュワールのハネムーン調査で通訳&案内をお願いしていた大学生のハシャールに頼み込んで、彼の生まれ故郷サタラ近辺を2日間かけて連れまわしてもらった。

彼自身は日頃からサタラ近辺の野山でヘビとクモを探し回っているマニアで、そのへんの地理には明るい。そのお気に入りのスポットを、ヘビとクモに関する詳細なガイド付きで案内してもらった。テーブルマウンテン上に広がる草原から、そのすそ野に広がる自然林、乾季にも涸れることのない清流まで、この短時間にしては見られる限りの場所を連れまわしてもらった。

インドに来てはじめて、インタビューをすることなく、自然の中で気ままに過ごすことのできた、最高に楽しいひとときだった。







インドのハネムーンスポット

村での調査が終わったら、今度は観光地でアンケート調査。調査の趣旨はこう。最初に村で調査をして、村のSacred groveに、他ではなかなみられない鳥や木のどの種類がみられるのか、こうした鳥や木について地元の村人がどんなふうに関心をもっているのか、どんな情報をもっているのかを調べる。次に、同じ鳥と木の種類について観光客がどんなふうに関心をもっているのか、地元の村人の案内でそれを見に行くツアーにどれだけお金を払う心持ちがあるのかを調べる。この結果、地元の人が愛着と情報をもっていて、なおかつ観光客がお金を払って見に来たいと思う鳥や木の種類が、こうした村々でエコツアーを推進するための目玉になるんじゃないかという考え。

今は雨季で観光地からお客さんの足が遠のく季節。そんな季節でもかろうじてたくさんの観光客をつかまえられる観光地ということで、マハバレシュワールという、インドのこの近辺ではハネムーンスポットとして有名な観光地に来た。ここはデカン高原の縁に位置していて、標高1300m近くの高度から一気に数百メートルを下る断崖絶壁が連なり、展望台からの眺めは壮大。そして雨季になるといくつもの滝が現れる。このダイナミックな眺めや滝を求めてたくさんの人がムンバイやプネーなどなど、近くの街から押し寄せる。

アンケート調査は、ヴェンナ湖という、何の変哲もない小さなダム湖のボート乗り場近くで実行。ハネムーンのカップルから大家族の団体旅行まで、次々とボートに乗りに押し寄せては去っていく。このうちのかなりの割合の人たちが、ボートに乗った後に、近くの売店でとうもろこしやらスナックやらを買って一休みする。そんなまどろみのひと時にお邪魔して、アンケート調査を実行した。


ここに来る人たちは、いわゆる一般的な旅行者。エコツアーの対象になるような、特に野生動物や植物に興味がある類の旅行者でないことを見込んでいたにも関わらず、アンケートを始めてみると、意外にも多くの人たちが興味をもって回答してくれる。なかには、ある木の種類について、ヒンドゥー教にとってどれだけ重要な木なのかをとくとくと語っていく人もいる。多くのハネムーンらしきカップルは、ふたりの間で「ねえあたなはどう思うの?」みたいに相談してから答えてくれたりもする。一方で、「ちょっとお邪魔します」と声をかけると、「邪魔しないでくれ」と断られることもあったにはあったけど…。

こんなふうに、アンケートのデータがしっかり取れただけではなくて、インドのちょい金持ち層の人びとの鳥や木に対する関心を垣間見ることのできる有意義な調査だった。

一方でこの観光地の「バザール」と呼ばれる中心街に目を向けてみると、ちょっとお粗末な眺め。ここの雨季の雨の降りようはものすごいらしく、横からも雨が降ってくるのか、建物全体がすっぽりビニールシートにくるまれている。泊まったホテルの部屋もとても清潔とはいえず、残念な感じ。まあ、インドの国民的観光地は大概こんな感じらしいのだが、日本人的感覚でいう観光地との違いにはちょっと衝撃を受けた。

2010年6月19日土曜日

農村風景

世界的な生物多様性保全業界では、国立公園などの保護区で守られた手つかずの自然ばかりが偏重される傾向がある。例えば国際的に影響力をもつ巨大環境NGOのConservation International(コンサベーション・インターナショナル)の定めるBiodiversity Hotspot(生物多様性ホットスポット)は、特定地域に固有の生物多様性がどれだけ危機に瀕しているかに基づいて選定される。その考え方はこう。まず、地域ごとの植物の種数と地域特有の固有種の種数にもとづいて地域ごとの生物多様性の価値を判定する。次に、地域全体面積のうち保護区により守られた区域の面積を算出する。この計算の結果、生物多様性の価値が高く、なおかつ保護区面積が一定基準に達していない区域を、自然が守られていない、すなわち生物多様性が危機に瀕している地域として、「生物多様性ホットスポット」と呼ぶ。この考え方の根底には、人間の居住が生物多様性にとっての脅威であるという観念があることが読み取れる。

「コンサベーション・インターナショナル」&「生物多様性ホットスポット」でグーグル検索をしてみると、生物多様性ホットスポットのデータベースに行きつく。このマップを見てみると、今やっそが調査している地域は「(インド)西ガーツ地方及びスリランカ生物多様性ホットスポット」に該当する。そして驚いたことに、日本は全土がホットスポットの真っ赤な色で塗りつぶされているではないか。

ここインドの農村に滞在していると、絶滅危惧種や希少種ではないにしろ、身近な昆虫や鳥の種類の多さに驚かされる。集落には巨大なマンゴーやジャックフルーツの古木の森に埋もれるように家々が点在して、特に古い木々には蘭やシダ植物が大量に着生している。今は雨季のはじまり、蘭がきれいな花を咲かせている。ここにはいろいろなチョウやハチが飛び交い、水がたまり始めた水田上空にはトンボが交尾飛行をしている。水路に目を向けるとメダカみたいなちいさな魚たちが群れ、その上を時たま、きれいなルビー色したカワセミがサッと横切る。そんな中で、男たちが牛を操って田をおこし、おこされたボコボコの土のかたまりを女たちが木の棒で丁寧にならしている。夜になると真っ暗な集落の中を飛び交うホタルの光がきれい。ここには、人びとの日々の営みに息づく自然がある。



いつもごはんを頂いている農家で話をしていると、おばちゃんの二人の息子のうち、長男は州都ムンバイで働いていて、二男は最寄りの街デヴルークでコンピューターサイエンスを勉強中とのこと。この子も近い将来は都会に出て働くことになるのだろう。この様子だと、このうちの後継ぎはいない。調査地の村々の人口データに目を向けてみると、多くの村で男性の数が女性に比べると明らかに少ない。極端な村では半数近く。皆、現金収入を求めて都会に出て行ってしまう。生活のためには止むを得ないのだろうけれど、その向かう先は農村の高齢・過疎化。数十年前の日本と同じ道を歩んでいる。


これから先数十年で、この農村の生活は大きな変化を迎えることになるのだろう。農家の高齢化と労働力不足、そして市場経済の拡大が農業の効率化を呼ぶと、昔から人びとの生活とともにあった自然も変化を余儀なくされる。日本で野生のトキが絶滅していったように、昔はどこにでもいたメダカやドジョウ、コウノトリが絶滅の危機に瀕しているように、インドのこの農村でも、今はどこにでもいる虫や鳥たちの運命も、これから先安泰とはいえない。そして何より、ここの素朴であたたかい人たちの生活や、美しい昔ながらの農村風景が失われることが、よそ者ながらもとても惜しい。


現地調査から一時的にNGOの事務所のある都会に戻って、ネットゲームに熱中する若者に紛れてネットカフェでブログを更新しながら、晩御飯にカレー風味のインスタントラーメンを食べながら、農村の美しい風景やおばちゃんのおいしいご飯を振り返って、Development、発展、の意味を問い質していた。

2010年6月18日金曜日

Raining





ブッダ集落

ここふつかほど、村人がSacred groveに生えている木や住んでいる鳥をどんなふうに見ているのかを調査するために、ウズガワ村に通っている。今日はこの村の集落のひとつ、ブッダワジと呼ばれる集落に行ってきた。ワジとは集落のことで、集落名はそのまんま、ブッダの集落ということ。名前の由来も単純で、ウズガワ村ではヒンドゥー教徒の集落が大多数を占める中で、この集落は珍しく皆仏教徒。村の外見上は全く他と変わらないのに、お寺に入ってみると仏様が鎮座している。

ここで意外な出会いがあった。調査の通訳をお願いしている地元大学院生のミヒル君がお寺に掲げてある看板をさらっと読みあげると、なんとここの仏様は、とある日本人によって寄贈されたものだとか。このインドの山奥まで来て仏様を寄贈するとは、なんと奇特なお坊さんがいるものだと思いながら、思わぬ出会いに感激。写真はこのお寺の中で村人にアンケート調査をしている様子。

ちょっと歩いて次の集落、バダドゥワジに行くと、今年最初の雨から数日、牛といっしょに田植えの準備にいそしむ人々で田んぼが活気づいていた。農作業は家族総出で、色とりどりの服でにぎやかに働く女性の姿、汗まみれになりながら必死で牛を操る男たちの働く姿が雨で潤った大地に馴染んでなんとも美しい。水たまりにはトンボが産卵に訪れ、田んぼの間の木立ちにはランの花が咲き誇り、生命にあふれかえっている。たぶんこれは日本が発展の過程で置き忘れてきた景色なんだろうなと思いながら、仏様を寄贈したお坊さんといい、日本とインドとのつながりを強く感じる一日だった。

Monsoon

前の投稿から半年おいて、今度の投稿はインドから。
修士論課程の後半は各自テーマを選んで修士論文研究に打ち込むことになってて、やっそが選んだのはインドのSacred Groveの生物多様性保全について。Sacred Groveとは、日本で言うお寺や神社の周りにある鎮守の森のことで、ヒンドゥー教や各地の古くからの信仰のお寺の周辺にはなかなか立派な森が残っている。インドはもともと人口密度が高く、加えて近頃の急速な発展で自然林がどんどん失われている中で、信仰や村の掟で伝統的に守られてきたSacred Groveには貴重な自然林と数多くの希少種が今なお多く残されている。そもそも自然と人間の関わりについて突っ込んだ研究がしたかったのと、日本とは遠く離れたインドの地に、日本と全く同じような形で守られてきた自然があることに興味をそそられてこのテーマを選んだ。

そんなわけで、2週間ほど前にインドに到着して、準備も整ってちょうどこれから村々を回るフィールドワークを始めるところで、なんとモンスーンの到来。調査地はインドの西海岸に連なる西ガーツ地方と呼ばれる山地で、6月から8月にかけて猛烈に雨が降る。なんてこった。

調査のことは置いといて、周りを見回すとみんなは雨に喜んではしゃいでいる模様。研究に協力してもらっている地元のAERFっていうNGOのスタッフのひとり、リチャちゃんは、大雨がふる直前の真っ黒な雲を見て「ビューティフル!」って目を輝かせて感動していた。去年の9月以降初めての雨だっていうから、みんな待ち遠しかったんだろうな。

イギリスでは冬の間、ほぼ1年の半分が悪天候で来る日も来る日も雨。本当に雨がいやになる。日本では通年雨に恵まれているせいか、そこまでは雨に喜びを感じない。インド西ガーツ地方の人びとの、モンスーン到来に対する喜びを見て感動した。年中暑くて乾燥した気候だから、飲み水や生活用水、農業のすべてがモンスーン頼み。それだけに、この自然の恵みに対する喜びもひとしおなんだろう。

2009年12月24日木曜日

大聖堂のクリスマス

カンタベリーには、13世紀頃に建造されて、元英国国教会の総本山としてこちらでは有名なカンタベリー大聖堂がある。今日12月23日に、一般公開のクリスマスキャロルに行ってきた。


大聖堂に入ると、その大きさ、建造物そのものや装飾の美しさに圧倒される。以前昼間に3時間ほど見学しに来た時には、地下聖堂の、小さなチャペルがたくさんある空間にも入ってみたけれども、時間がなくて十分に見ることができなかった。ひとつの建物なのに、それだけ見どころがある。


こんな特別な場所でクリスマスキャロルが聴けること自体が感動的な体験なのに、それに加えてクリスマスキャロル自体も本当に素晴らしかった。ボーイズソプラノの透き通った声と、温かみのある何重もの合唱。天井の高さが何十メートルもありそうな大聖堂の空間全体にこのハーモニーが響き渡って、声が空から降ってくるような不思議な体験。参加者も所々では合唱団と一緒になって歌う。自身はクリスチャンでは全くないけれど、信教がなんであろうと、この空間にいるだけで神聖な気持ちにさせてくれる。こんな場に巡り合えることを幸運に思った。

因みに、クリスマスキャロルの式典中には写真撮影は禁止されていたので、ここには式典後の大聖堂内部の写真、そして外にある大きなクリスマスツリーの写真を貼っておきました。こうしてみるとクリスマスツリーは小さく見えるけれど、大聖堂が巨大なだけで、クリスマスツリーも実は相当の大きさがある。

もう1点、気付いたこと。クリスマスキャロルの英語の歌詞カードが配られて読んでみると、すべてキリストの生誕を祝う歌。日本ではほとんど認識されることはないけれども、ここイギリスでは、クリスマスはちゃんと、キリストの生誕を祝福するお祭りだった。

小笠原を振り返って

小笠原を引き上げたのは今年の8月8日、もう4か月も前の話。あれからこの方、小笠原から内地に引っ越して、今度は内地から留学先のイギリスに引っ越して、落ち着いたと思ったら毎日深夜まで宿題やら読まなきゃいけない論文やらに追われる毎日。そんなこんなでブログの更新もすっかり滞っていたけれど、年末で少し落ち着いたこの際に、小笠原の去り際をちょっと振り返ってみようと思う。

小笠原では何よりも友人に恵まれて、お陰さまでとても充実した2年半を過ごすことができた。下は、引き上げのおがさわら丸に乗りこむ直前の見送りの様子。真ん中の青い服を着た東南アジア系のルックスの青年がやっそ、その右手の笑顔の素敵な女性が今年6月に結婚したやっその奥さん、二人の間の奥のほうにチラリと見えるのが、やっそのいちばんの遊び友達だったハハさん。左手の赤いタンクトップのワルそうなおっさんが写真家のマナさん、そして奥からシワクチャのいい笑顔を覗かせているのが元板前さんのジロウさん。よく夜にうちに招いて、ある時はお宅に呼んでもらって、魚やら何やらおいしいご飯を食べながらおいしいお酒を飲んで楽しく過ごした大切な友人たち。頭や首に巻いているハイビスカスやプルメリアの花のレイは、ここには写っていない友人たちから贈ってもらった素敵なプレゼント。小笠原時代には一緒に楽しい時間をともにして、本当にお世話になって、こんなふうに送り出してもらえるのがとてもうれしかった。こんなにいろんな人からいただいた恩を、小笠原にいる間にちゃんと返すことができたかな。


小笠原は東京から船で25時間半、ほんとに遠い島。船から去りゆく島影を見ながら、また来るね、と胸の中でつぶやいた。そして、また来ることはできても、海も気候も、そして人も温かいこの島で、同じようなゆっくりと楽しい時間を同じ人たちと過ごすことはもうないんだろうなと思って少しさびしかった。小笠原を引き上げるときには、悲しみで涙を流しながら手を振ってお別れというのが定番なんだけど、友人たちから温かい気持ちを受け取って、船が出港したあとも、無人島で仕事をするときにいつも船で渡してもらうのにお世話になったジョージさんが、いつものボートでおがさわら丸にギリギリまで近づいて「元気でなー」って叫んでくれて、悲しさやさびしさよりも嬉しさが勝って、全く涙が出なかった。みんな、ほんとうにありがとう。

あと想い出深い写真を何点か。



これは今年の7月22日に見た皆既日食。全世界的に、こんな見事な皆既日食が見られたのは小笠原近辺海域だけのよう。しかも、こんな皆既日食を、真っ青な透き通る海のど真ん中で、向かう途中にイルカのお出迎えにも会いながら見ることができたのは最高の思い出。


あと、これは出発前日に奥さんと一緒に小港で撮った写真。小港は、広々していて包み込むような温かさのある場所で、お気に入りの暇つぶしスポットだった。めったに波が入ることはないけれど、石やサンゴが少なくて、どシロウトサーファーのやっそにとってはケガの心配なく安心して入れるお気に入りのサーフスポットでもあった。

こんな素敵な小笠原から引き上げて、今は冬の底冷えがするイギリスのカンタベリーで大学院生の生活を送っている。もはや透明な海には囲まれていないけれども、もうしばらく、このタイトルで投稿を続けさせてもらおうと思ってます。

2009年12月11日金曜日

ヒマラヤ保全協会会報への投稿原稿vol.4(最終回)

さて、もう前回の投稿から3カ月も過ぎてしまいましたが、この間、やっそは小笠原を引き上げて、実は今はイギリスで大学院留学中。仕事に遊びに充実していた小笠原を引き上げるのは後ろ髪を引かれる思いでしたが、今後途上国で環境の仕事をするためのステップアップのために猛勉強中です。

こんな中途半端なタイミングですが、ヒマラヤ保全協会の投稿記事の最終回を投稿したので、今回はそれを掲載しておきます。
↓↓↓

マラウイ、ネパール、そして小笠原。
3つの地域を比較してみえてくるもの
第4回(最終回) 実効性のある環境保全活動の考え方

今まで3回の議論を踏まえると、マラウイ湖国立公園、ネパール山間部及び小笠原の3地域には、人と自然との関わり合いや環境問題について三者三様の事情があることが分かります。では、保全活動の考え方は、この3つの地域ですべて異なるのでしょうか?否、活動の内容はそれぞれ違うにしろ、根本の考え方には共通点があります。それは、行政や環境保全団体のニーズではなく、地元住民のニーズに合った活動を、地元が主体になって長期的に展開する、という点です。

マラウイ湖国立公園での問題の根本は、国立公園内の村々の人口増加と、それに伴う食糧・エネルギー資源の不足。この解決策は至ってシンプル。人口増加の抑制と代替資源の供給です。これが地元のニーズで、言うは易し行うは難し、ではありますが、ゴールを設けて地道に取り組むしか、国立公園内の自然を守る手立てはありません。

マラウイ湖国立公園での違法な薪採集

ネパール山間部では、エネルギー資源や家畜飼料としての森林利用のために、集落周辺か辺縁部へと森林が徐々に衰退しています。NGOヒマラヤ保全協会(IHC)がプロジェクトを展開する村々では、苗畑と植林の地道な活動が実って、資源供給源が確保され、状況が改善されています。これは、IHC元会長の故川喜多二郎先生による徹底した地元住民のニーズ調査に端を発し、地元のIHCN(ネパール現地事務所)との長い協働を通して成し遂げられたもので、細々とした問題はあるにしても、途上国における環境協力のお手本といえるものだと思います。

キバン村の植林地

小笠原では、実生活と自然環境とのつながりが弱いために、特に陸域に関しては住民の関心が低く、例えば捨てネコがアカガシラカラスバトなどの固有種を脅かすなど、人為起源の外来種問題が顕著です。この場合、地元住民には潜在的な情報のニーズがあります。具体的には、固有種について、地元住民への見せ方、伝え方を工夫して、世界で小笠原だけにある宝物という意識を育てること、そして宝を守るために住民が注意すべきことを普及させることが重要です。

ビジターセンターにおける展示

自然環境にまつわる問題の本質は、人々の自然環境へのかかわり方にあります。従ってその改善のためには、野生対象の調査・研究だけでは限界があり、人々のニーズを把握した上で、自然環境との共生関係を築くことに注力する必要があります。

2009年9月30日水曜日

ヒマラヤ保全協会会報への投稿原稿vol.3

またまた間が空いてしまいましたが、ヒマラヤ保全協会会報への投稿原稿の第3段を掲載します。
↓↓↓
エコツーリズムとは何なのか、それを一見して教えてくれる例がマラウイ湖国立公園にはあった。公園内、湖に面して長いビーチを持つチェンベ村は風光明媚な観光地。そのビーチに沿って、村人の住まいを押しのけてロッジが増えつつあった。村には水道はなく、入浴や洗濯などは全て湖の水頼みで、浜辺は重要な生活の場。それが、ロッジが増えることにより次々に狭められていた。住民は引き換えにどれだけのものを得ていたのだろうか?現金の必要に迫られて土地を売るのかもしれないが、得られるお金は一時的なもの、残るのはロッジ清掃や簡素な民芸品販売の仕事くらい、釣り合いが取れているようには思えない。

ビーチで網をほどく子供たち

沖合に目を転じると、無人島に、森になじむ素朴なロッジがあった。島へのアクセスはカヤック。地元のガイドが同伴し、島のガイドや食事の面倒まで見てくれる。ロッジが島を借り上げた賃借料は国立公園に収められ、島の周りの手つかずの自然を守るために使われる。何よりも、村人を雇い、ガイドに養成して継続的な雇用を生み出し、彼ら自身も周りの自然の価値を知る良い機会になる。観光客は地元ガイドの紹介でありのままの自然を楽しみ、それが地元には持続的な雇用と環境を守るための資金をもたらし、地元の人々が地域のもつ自然の価値を認識するきっかけを与える。これが、エコツーリズム。

小笠原では、太古の昔から変わらない自然の営み、イルカや冬に訪れるザトウクジラ、固有種溢れる森、それを取り巻く美しい景観を求めて観光客がやってくる。生の自然が売りの小笠原では自然ガイドに携わる人は多く、訪れる人が自然を楽しみ理解する工夫、観光利用により自然を損なわないルールづくりなどの取り組みを進めている。

小笠原のエコツアーのメッカ南島

ネパールについては、4年ほど前、調査に巡ったアウロやナルチャンなどの村々の、個性ある家並みや整った石畳の道、そこから眺めるアンナプルナの美しい山並み、そして地元の方々の温かさが忘れられない。こんな素の自然や人々との交流を楽しむエコツアーをヒマラヤ保全協会も進めているが、このような活動が広がり、より多くの人々がネパールの良さを知り、それが、村々の素敵な文化や自然が守られつつ発展する、良い流れに繋がることを願っている。

シーカ村の家並み越しに見えるマチャプチャレ

2009年8月23日日曜日

ヒマラヤ保全協会会報への投稿原稿vol.2

またずいぶんと間が空いてしまいましたが、ヒマラヤ保全協会会報への投稿原稿の第2弾です。
↓↓↓
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今回は、前回お話したマラウイ、ネパールそして小笠原における人と自然との結びつきを踏まえて、この3地域の環境問題を比較し、環境問題の変遷を眺めてみます。

はじめに、「環境」というコトバの意味を確認します。「環境」とは、たとえば生態学者によって「外的要素の総和」などと説明されるように、中心人物がいて、その周辺で中心人物を支えている要素を合わせたものという解釈があります。これを踏まえると、私たちにとっての環境とは、私たちを取り囲み、私たちを支えてくれているもの、価値のあるものの集合です。

ただ、「私たち」と言っても、住む地域の文化や生活水準によって価値観は様々ですから、地域によって「環境」の認識は異なり、従って「環境問題」の質は異なります。では、マラウイ、ネパール、小笠原で「環境問題」はどのように異なるのでしょうか。

マラウイ湖国立公園では、人々の生活が自然に強く依存している状況の中で、人口が増え、料理や魚の燻製を作るのに必要な薪を採り過ぎて林が再生しなくなり、薪採りができなくなるだけではなく、降雨が地面にしみ込まなくなって雨期に洪水が増える、乾季には水が枯れて畑の作物が実らなくなるなど、人々の生活に直結する環境問題が深刻です。

国立公園内にも関わらず、集落近くの森はことごとく伐採されている

ネパールの農山村ではマラウイ同様の森林劣化が広くみられるようですが、出稼ぎ増加による人口圧の減少、IHCなどの植林活動により一部の地域では改善しつつあります。一方ではプラスチック製品の普及に伴うゴミ問題、カリガンダキ川沿いの自動車道路建設に伴う地水環境の変化やその住民生活への影響が心配されるなど、発展に伴う環境問題の多様化がみられます。

カリガンダキ川沿いに延びる自動車道路

そして小笠原。島民生活が、内地からおがさわら丸によって運ばれてくる物資でほとんど賄われているために、人々の生活の自然への依存がないに等しく、大規模な開発も落ち着いた中で、今は生物多様性の問題が注目されています。これは小笠原という海洋島独特の問題でもありますが、この地で独自に進化した固有種の多い生態系に、人が持ち込んだヤギやネズミなどの外来種が入り込み、その影響で多くの種が絶滅の危機に瀕していることを問題とするものです。

小笠原・母島だけに見られる固有種のひとつ、ワダンノキ

以上、発展の程度に沿って環境問題を眺めてみましたが、発展に伴い人々の視野が広がり、環境問題は人々の生活に直結するものから周辺的なものへと変遷する傾向があるようです。

発展に伴う環境問題の変遷のイメージ

2009年5月20日水曜日

戦争の爪痕

前の投稿から1か月経って、ようやく新しい投稿をする余裕ができた。
今回はちゃんとネタがあるので、ヒマラヤ保全協会会報への投稿記事はまた次の機会ということにして、新しいネタを披露します。

近頃、また現場仕事が増えている。
この島で、山に入って調査をしていると、どこへ行っても、100%、戦争の遺構に遭遇する。それは、昔の軍道沿いに建てられた電信柱の残骸であったり、防空壕であったり、上陸戦に備えた塹壕であったり、爆撃で地面に空いたすり鉢状の穴だったり、周囲に散乱する弾丸であったり。

その中で、今回はひときわ印象に残るものに遭遇した。


とある山のてっぺんに、2年前に訪れた時からの植生の変化を観察してみようと行ってみたら、半円形の細長い窓のある、ドーム状のトーチカを発見した。そのきれいな形状に惹かれて中を覗いてみると、何やら奥のほうから光が射している。もしや、裏側から入れるのでは…。そう期待して回ってみると…。
入口に続く道を発見!

さらにそこを辿ってみると…
あったあった、これが入口。

中に入ってみると…
なんともきれいに整えられたドーム状の空間。まんなかの円柱状の台が、このトーチカに据えられた機関銃の台座だったのだろう。以前、板長という戦跡ガイドさんに連れられて別の戦跡に入ったときのことを思い出した。戦時中、日本軍は民間人を兵隊として駆り出すとき、もともとの職業を考慮して、例えばトーチカの設営には左官職人を送り込んだそうだ。戦後60年以上経ってこれほどきれいに残っているとは、この職人さんの腕の良さには感服するばかり。

ここから外を覗いてみると…180度、水平線が見渡せる。
当時、兵隊さん達は何を思ってここから水平線を眺めていたのだろうか。

近くを歩いていると、機銃の弾丸なのだろうか、直径1.5センチ、長さ8センチほどのひしゃげた弾丸が転がっていた。戦闘機から撃ち放たれた機銃の弾丸が、岩に直撃したのだろうか。その瞬間を思い起こさせる、生々しい落し物。
今度は、お弁当を食べていると足もとに小さな銃弾が。これは薬莢もセットになっているから、使われていない銃弾なのだろう。兵隊さんが銃に弾を込めながら、ポロリと銃弾をこぼして「おっと」とたじろいでいる姿を勝手に想像した。
小笠原にいると、戦争は歴史の中の断片ではなくて、僕たち日本人が歩いてきた道のりのちょっと前の地点に、連続して存在していることを実感する。

小笠原の街はなかなか発展しない。なぜかというと、土地の流動性がとても低く、今という時代に合わせてうまく土地を使うことができないから。地主がだれかわからない、わかっても島にはおらず、内地のどこにいるのかわからない、連絡がとれないことが多いそうだ。戦時中の強制疎開で、国の都合でこの地を離れ、小笠原が日本に返還されるまでの20年以上の間に疎開先に定着した人もいたのだろう。国の都合で故郷を奪われた人々によって残された土地を、新しい時代の都合で開発することはできないということなのだろうか。こんな形で、おとしまえがつけられていない、後を引く戦争の爪痕を感じる。