2008年8月30日土曜日

兄島の乾性低木林

前回の投稿からはや一ヶ月が経ってしまった。早いものだ。
相変わらず気まぐれですみません。

8月中はひたすら現場の仕事が多かった。
そのひとつが、父島の北側に隣り合う兄島での調査。世界自然遺産登録を目指して、小笠原の生態系の重要な価値とされているものに、ずいぶん前の話で触れた陸産貝類のほかに、乾性低木林というものがある。

小笠原諸島は大陸と一度も陸続きになったことのない海洋島で、生き物たちはすべてはるばる海を渡って小笠原に辿りついた。植物に関しては、日本本土ではなく、東南アジア系に起源をもつものが70%もあるという。こうした渡ってきた植物たちが、長い年月をかけて出身地よりも雨が少なく乾燥した小笠原の気候に適応していく中で、多くの種が出身地の祖先とは違う形態や特徴をもつ新たな種に分化し、小笠原の固有種となった。

兄島の乾性低木林は、こうして小笠原で独自に進化してきた固有植物種の宝庫。日本では他には見ない、独特な景観がある。種によって葉の色がずいぶんと違い、遠く見渡すといろんな緑色のモザイク模様がきれい。




コバノアカテツの新葉。これは固有種ではないが、この赤褐色のビロードのような質感が好きだ。

2008年7月27日日曜日

父島の太平洋戦争

太平洋戦争中の父島に何があったのか、実はあまり知られていない。
父島には、どんなに山奥へ行っても至る所に壕があり、海岸には海に向けて銃眼が連なっている。やっそが島に来て1年半、友人や旧来島に住む人との話のなかでは「父島は上陸戦がなかったから戦死者はほとんどいない」、霊感のある人によると「そこらじゅうに兵隊さんが見える、暗い雰囲気がある」など、どれが本当ともつかない話ばかり。ここには戦時中の記録がないから、一般に知られる事実というものがない。

やっそは、今年1月に吉村昭著の「脱出」を読んで以来、戦時中の父島の実情について強く関心を持つようになった。この「脱出」という著作には、戦時中から終戦に向けての過酷な時代について、それぞれ異なる境遇を生きる人の視点で1編1編綴られた等身大のストーリーがある。当時を生きた人にとって戦争とは何だったのかについて克明に描かれている。

先月訪れた硫黄島での出来事を知るにつけて、父島への関心をいっそう深めた。ここで何があったのか、当時を生きる人にどんなストーリーがあったのか?

そんな疑問に答えを与えてくれたのが、皆から板長(いたちょう)さんと呼ばれている、島で戦跡のガイドをされている方。丸一日の戦跡ツアーに友人と参加して、当時通信施設など軍の重要拠点が置かれていた夜明山周辺を散策した。

板長さんの後を歩いて行くと、普段何気なく車で通過していた場所のすぐ脇に壕があることに気づく。真っ暗な壕の中を電灯で照らしながら進んでゆくと、先に明かりが見えてくる。明かりは銃眼から差し込んでいるもので、その銃眼から顔を出すと、驚くことに入った側とは反対側の海が広く見渡せる。壕は暗く迷路のように入り組んでいて、ただでさえ方向感覚を見失うのに、この繰り返しで自分の現在位置を完全に見失う。



銃眼と据えられたままの平射砲。壕内に大量の水が溜まって鏡のように反射している。

銃眼の外側から見た平射砲

銃眼から眺めた父島二見湾

爆撃により2階の床が抜け大破した元海軍司令部の建物。爆撃時に本部は既に山中の壕内に移転しており、人的な被害はなかったそうだ。


トロッコを走らせたレールが残る壕、当時発電施設があった壕、炊事場だった壕、そして今なお砲身が完全に近い状態で残る銃眼。壕内に電灯をつけるための支柱、兵隊さんの荷物を置いたスノコ状の板、ヘルメットをかけたフック。目にするもの一つひとつについて丁寧な説明があり、その一つひとつが意味を持ち、当時の様子が思い浮かぶ。

そこには、今まで自分が知っていた父島とは全く別の世界が広がっていて、タイムスリップしたような、狐につままれたような感覚になる。

「ここにビロウ(ヤシの仲間)の木が3本あるでしょう、戦争初期に海軍に5年間所属し、任期満了で船を降りた後、戦局の悪化で小笠原兵団に送り込まれた方がいましてねえ、この方が戦後数十年経ってから父島にいらした時に案内させて頂いたんですよ。海軍ではハンモックで寝るという習慣が身についていたから、小笠原でも地べたで寝ることができなくて、ハンモックをこの3本のヤシの幹に固定して寝たというんですよ。父島でも爆撃は激しく、寝ているハンモックのすぐ近くに爆弾が落ちてもこの方は意固地で動かなかったそうです。この幹に傷があるでしょう、これは爆弾が炸裂して破片が食い込んだ跡です。」*

「この2本のヒメツバキの木は見事でしょう、大きさも形も似たり寄ったりで、寄り添うように生えて夫婦(めおと)のようでしょう。この2本の木に救われたという方がいました。連日の爆撃で身動きが取れない中、このヒメツバキの根元で戦友と故郷のことを語り合ったことが精神的に救いになったというのです。」*

板長さんが何十年もこの仕事に携わる中で培ってきた、この地で戦争を経験された方との繋がりにより、この地に実在したストーリーが語られる。

板長さんに頂いた資料によると、当時の父島における陸・海・空軍、軍属の総数はおよそ18,700人、今の父島の人口が2,000人近くだから、そのおよそ10倍にもなる、驚くべき数。このうちの戦没者数はおよそ4,500人近くにものぼるという。上陸戦こそなかったものの、特攻機、艦船・輸送船等乗組員、空爆被害、自爆等含めるとこれほどの数になるそうだ。

戦争の遺構を見るにつけて人力でこれらすべてを創り出した当時の人々の能力と苦労に驚嘆し、ここでの出来事に胸を痛める。

*板長さんの語りを、趣旨を外さないよう会話風に再現していますが、板長さんの語った言葉を厳密に再現しているわけではありません。



2008年7月20日日曜日

看板

そういえば、以前3月22日のブログで掲載した製作途中の事務所の看板が、実は6月中旬に完成していた。あれからおよそ3ヶ月、あまりにも時間が経ち過ぎてブログに掲載することもすっかり忘れていた。

コペペの浜で伐採されたテリハボクの丸太を拾ってきて、チェーンソーでスライスして、やすりがけして平らにして、彫刻刀で彫って文字上面を焼いてニスをかけて、漸くできあがった。道のりは長かったけど、この赤味のきれいなテリハボクの木目を見るにつけて、想像以上の出来の良さを見るにつけて大満足。

勤務先の会社が初めて明かされてしまうが、せっかくなので写真を掲載させてもらいます。

看板製作にご協力頂いた方々、ありがとうございました。お陰様です!

2008年6月15日日曜日

硫黄島

国の為重きつとめを果し得で
     矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺には朽ちじ吾は又
     七度生れて矛を執らむぞ

醜草(しごくさ)の島に蔓(はびこ)るその時の
     皇国(みくに)の行手一途に思ふ

太平洋戦争末期、戦争終結のおよそ半年前に硫黄島であった日米の決戦の最期に、硫黄島を管轄する小笠原兵団長栗林中将が、玉砕の直前に大本営に宛てた訣別電報の最後に添えられていた和歌三首。

6月12日から15日の間、小笠原村主催の「硫黄島墓参事業」に参加してきた。太平洋戦争中の激戦については多くの人の知るところ、そして今だに定期便はなく一般観光客の上陸が許されない、有名ながらも最も遠い島のひとつ。ただし、硫黄島旧島民(戦前の住民)は当然のこと、小笠原村在住1年以上の一般島民は抽選により、今回のような墓参事業に参加し、上陸することができる。やっそもこの千載一遇のチャンスを得て、硫黄島に上陸することができた。

墓参の主旨は、慰霊祭に参加して硫黄島決戦で亡くなった方々を弔うこと、旧島民の方々は故郷に一時的に里帰りすること、そして硫黄島の戦跡を巡って決戦の様子を目の当たりにして理解すること。やっそは参加するにあたって、「硫黄島からの手紙」、「父親たちの星条旗」はもちろんのこと、旧島民を祖先に持つ友人から借りた硫黄島に関する資料で多少の勉強をした。



慰霊祭の献花



その上で島の隋所を訪れてみると、目の前の景色から戦時中の様子が脳裏をよぎる。米軍が上陸した扇浜、資料にはここに日米兵の無残な亡骸が累々と横たわる光景を収めた写真が載っていた。摺鉢山(すりばちやま)から扇浜に向けられた旧海軍の破壊された砲台、火山活動による地熱のために気温40~50℃に達するサウナのような地下壕、このような場所では自決や米軍による火炎放射などの攻撃により多くの方が亡くなっている。当時の過酷な状況を思い浮かべると目に涙がにじむ。

米軍が上陸し、死闘が繰り広げられた海岸線(右奥が摺鉢山)


摺鉢山ふもとの砲台。コンクリート製壕の中にあったものが、米軍の砲撃により破壊され露出している。

そして、戦争の悲惨さはもとより、そのときここで戦っていた人々の思いの強さに強く感じるものがある。硫黄島は東京から南へおよそ1300キロ、サイパンから東京方面へ出撃する米軍爆撃機B29の帰路中継地点として重要な軍事拠点であることから、米軍が集中攻撃を行った。一方、日本軍にとって硫黄島は日本固有領土初の上陸戦であり、また米軍占拠によりB29の本土爆撃が激化する可能性があることから譲れない一線であった。

制空権、制海権を米軍にほぼ抑えられ、銃器弾丸、食糧等の補給がほとんどなく物量に圧倒的な差があり勝ち目のほとんどない戦いにありながら、当初5日で落ちると目されていたものを27日間の死闘に持ち込んだ。そこにかけた司令官栗林中将の思いが、冒頭に述べた和歌三首に凝縮されている。

3句目、「醜草の島に蔓るその時」というのは戦争の過ぎ去った今現在のこと、目の前の死闘、自らの命よりも、これほど国の未来を真剣に思い、身を尽くした人がいた、それがあって今の日本があり自分たちがあることを、今を生きる日本人として心にとめておかなければならないと思う。


参考資料:「硫黄島とバロン西」(2006年11月、太平洋戦争研究会編著、ビジネス社発行)

2008年5月14日水曜日

台風一過

昨晩、台風2号がものすごい風を伴って小笠原諸島の西沖を通過していった。

用心して、ガラス窓が割れるのを警戒して雨戸を閉めて寝たのだが、朝起きて雨戸をあけると、もうずいぶん風は収まっていたものの、窓の外から浜辺のような潮の香りがした。車は塩だらけ、事務所の物件を貸してくれている家主さんは、洗車に使うようなウォーターガンを使って家の外壁を一生懸命洗い流していた。雨を伴わない台風だったために、吹き上げられて降ってきた塩水が洗い流されず、その塩のせいで家が傷むのを防ぐためだという。

朝起きてすぐに浜に行ってみると、素晴らしく波乗り向きの波が次々と押し寄せ、十人を超えるサーファー達が次々と波に乗って滑りだしている。普段なかなかいい波の入らない小笠原では、台風が通過すると、待ってましたとばかりにサーファー達が海に繰り出す。

こんなふうに、台風の害から家を守るために手を尽くす人、逆に波という台風の産物で楽しむ人々がいて、台風が島民の生活の一部になっているというのが実感できる。

夕方、事務所で仕事をしていると俄かに外の光が赤みを帯び、これはと思って三日月山の展望台に急ぐと、西の空が台風一過ならではのダイナミックな夕焼けに染まっていた。

2008年5月4日日曜日

幻の滝

ゴールデンウィーク到来、だがしかし、せっかくの連休だというのに連日雨雨雨…。だった。昨日はたまたま早く寝付いてしまったがために朝早く目覚めた。おぼろげな記憶の中で、強い雨音が聞こえていた。今日もダメか、どうせダメかと思って二度寝。しばらくして再度目覚めてみると、窓の外が光に満ちている。カーテンを開けると抜けるように真っ青な空。この数時間の間にすさまじいまでの天気の変化。

よし、この天気はカヤックに行くしかない、そう決めた。父島やその近辺の無人島には、大雨の直後にしか姿を現さない滝がいくつもある。それは、土壌が薄く貧弱であることに加え、島自体が小さく、降雨が地表を流れ去って海に至るまでがあっという間であるということに起因している。この幻の滝をこの晴天の中見に行かない手はない、そんな滝の中でも特にダイナミックな兄島は滝ノ浦の滝を見に行くことにした。

友人3人と、4人連れ立って2隻のシーカヤックに分乗し、父島の宮之浜から海に入った。漕ぐこと十数分、滝ノ浦の滝が見えてきた。今まで見たことのある中でいちばん水量が多くダイナミックな瀑布、来た甲斐があった。
滝ノ浦の瀑布をバックに記念撮影(写真は友人の乗ったカヤック)


その後、兄島の西側に位置する人丸島のちいさなビーチに上陸、昼ごはんを食べたりゆっくりコーヒーを淹れて飲んだりスノーケリングを楽しんだり岩に登って絶景を眺めたり、のんびりと楽しみ尽くした。
人丸島の白い砂浜


今日滝ノ裏で見た瀑布の風景のように、自然の営みの移り変わりのほんの一時にしか姿を現さない壮大な風景に居合わせることは本当に貴重なこと、そんな経験をできた今日という日に大満足。

2008年4月23日水曜日

フェルマーの最終定理

3月末から先週いっぱいまで、内地へ出張に行ってきた。
お花見が目的、それに仕事の用事を付け加えるような形で。

小笠原に比べると、内地での生活にはスキマ時間が本当に多い。
毎朝のように遅延する電車の中、有名ラーメン店の行列の待ち時間、会社の昼休み…。
そんな時にはとにかく本を読む。小笠原では読めそうで読まない本を読む。

今回のヒットは、「フェルマーの最終定理」。
イラストレーターの後輩のブログに素数ネタが連載されていて、そこで紹介されたこの本に興味をそそられて買ってみた。これが本当に面白い。数学史上超有名な超難問「フェルマーの最終定理」ができた時代背景、そしてフェルマーその人の生い立ちや性格、そしてその後3世紀以上にわたる数学者による挑戦の歴史が克明に描かれている。そしてその理論が素人にもわかるように超簡潔に述べられている。やっそはもともと数学が特に好きというわけではないが、この理論と人間ドラマの交錯したストーリーが面白くて夢中になって読み切った。

この本に示されていた面白いクイズ。フェルマーの定理には直接関係ないのだが、ジョン・フォン・ノイマンによるゲーム理論に関する記述の一節より。

「トルエルという、三人で行う決闘のようなものがある。ある朝、黒氏と灰氏と白氏は、もめごとを解決するためにピストルで決闘をすることにした。決闘は一人だけが生き残るまで続けることになった。黒氏はピストルが下手だったので、平均して三回に一回しか的に当たらない。灰氏はそれよりもいくらかましで、三回に二回は的に当たる。白氏はピストルの名手で、百発百中だった。公正を期するため、黒氏が最初に発砲し、次に灰氏(彼がまだ生きていれば)、最後に白氏(まだ生きていれば)という順番で、一人が生き残るまで続けることにした。黒氏ははじめにどこを狙うべきだろうか?」

わかるかな~?
次のブログに答えを掲載します。