2008年6月15日日曜日

硫黄島

国の為重きつとめを果し得で
     矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺には朽ちじ吾は又
     七度生れて矛を執らむぞ

醜草(しごくさ)の島に蔓(はびこ)るその時の
     皇国(みくに)の行手一途に思ふ

太平洋戦争末期、戦争終結のおよそ半年前に硫黄島であった日米の決戦の最期に、硫黄島を管轄する小笠原兵団長栗林中将が、玉砕の直前に大本営に宛てた訣別電報の最後に添えられていた和歌三首。

6月12日から15日の間、小笠原村主催の「硫黄島墓参事業」に参加してきた。太平洋戦争中の激戦については多くの人の知るところ、そして今だに定期便はなく一般観光客の上陸が許されない、有名ながらも最も遠い島のひとつ。ただし、硫黄島旧島民(戦前の住民)は当然のこと、小笠原村在住1年以上の一般島民は抽選により、今回のような墓参事業に参加し、上陸することができる。やっそもこの千載一遇のチャンスを得て、硫黄島に上陸することができた。

墓参の主旨は、慰霊祭に参加して硫黄島決戦で亡くなった方々を弔うこと、旧島民の方々は故郷に一時的に里帰りすること、そして硫黄島の戦跡を巡って決戦の様子を目の当たりにして理解すること。やっそは参加するにあたって、「硫黄島からの手紙」、「父親たちの星条旗」はもちろんのこと、旧島民を祖先に持つ友人から借りた硫黄島に関する資料で多少の勉強をした。



慰霊祭の献花



その上で島の隋所を訪れてみると、目の前の景色から戦時中の様子が脳裏をよぎる。米軍が上陸した扇浜、資料にはここに日米兵の無残な亡骸が累々と横たわる光景を収めた写真が載っていた。摺鉢山(すりばちやま)から扇浜に向けられた旧海軍の破壊された砲台、火山活動による地熱のために気温40~50℃に達するサウナのような地下壕、このような場所では自決や米軍による火炎放射などの攻撃により多くの方が亡くなっている。当時の過酷な状況を思い浮かべると目に涙がにじむ。

米軍が上陸し、死闘が繰り広げられた海岸線(右奥が摺鉢山)


摺鉢山ふもとの砲台。コンクリート製壕の中にあったものが、米軍の砲撃により破壊され露出している。

そして、戦争の悲惨さはもとより、そのときここで戦っていた人々の思いの強さに強く感じるものがある。硫黄島は東京から南へおよそ1300キロ、サイパンから東京方面へ出撃する米軍爆撃機B29の帰路中継地点として重要な軍事拠点であることから、米軍が集中攻撃を行った。一方、日本軍にとって硫黄島は日本固有領土初の上陸戦であり、また米軍占拠によりB29の本土爆撃が激化する可能性があることから譲れない一線であった。

制空権、制海権を米軍にほぼ抑えられ、銃器弾丸、食糧等の補給がほとんどなく物量に圧倒的な差があり勝ち目のほとんどない戦いにありながら、当初5日で落ちると目されていたものを27日間の死闘に持ち込んだ。そこにかけた司令官栗林中将の思いが、冒頭に述べた和歌三首に凝縮されている。

3句目、「醜草の島に蔓るその時」というのは戦争の過ぎ去った今現在のこと、目の前の死闘、自らの命よりも、これほど国の未来を真剣に思い、身を尽くした人がいた、それがあって今の日本があり自分たちがあることを、今を生きる日本人として心にとめておかなければならないと思う。


参考資料:「硫黄島とバロン西」(2006年11月、太平洋戦争研究会編著、ビジネス社発行)